贅沢な寂しさ・・・(短編小説)
これまで、私は、何度か谷川岳へ登ったけれど、列車の中で、ある程度の睡眠を取る事が出来た時はこの長い階段はさほど苦しくないのだけれど、列車で睡眠を取れなかった時は決まって、登山は苦しいものだった。
この486段の階段の登り方で、その時の体調を計る、バロメーターのように、登山者は、それぞれの登り方で地上の駅を目指すのだった。
今回、私は列車の中で浅い眠りが出来ていたので、階段を登る事はさほど苦しいものではなかったが、恭介は、何も、かもが初めての体験で、戸惑う事も多く、列車の中では、私の座るイスの下の床に横になっていても体の痛さに耐えられずに起きて床に座っていても全く眠れずに苦しんだと恭介は私に辛さを訴えて、ひどく疲れた表情をしていたので、私は恭介のリックを自分のリックの上に乗せて担いで階段を登った。
恭介は青白い顔をして、喘ぎながら、長い階段を一段一段、足をあげる事さえ辛そうで、何度も聞いてくる!
「まだつづくの?」
「まだ、つかないのかな~」
そんなふうに私に聞いて来る、その度に、私は・・・
「もう少しだから、頑張って!」
そう言って励ますしかなかった。
恭介は本当に体調が悪いようで、何度も、気分が悪くなり、吐くような仕草をしても、昨夜から何も食べていないし、水さえも飲んでいなかった事を思い出して、私は、水を飲むようにすすめた。
それで少しは気分の悪い状態が良くなってほしかったし、元気になってほしい!
私が登山中にばてた時の対処方法だから、恭介も良いほうに変わり、体調が快復してほしいと思いながら、アルミの水筒を恭介に手渡して・・・
「水を一口でも飲んでみて!」
「きっと吐くのにも楽になって!」
「胃の中にある物全部を吐き出してしまうと」、
「気分がすっきりして楽になるから・・・」
「体調も良くなると思うの!」
何度も、何度も、長い階段がつづいて、もう、殆どの乗客は、周りのはいなくなっていた。
(6)
恭介はどんなにか、惨めな思いだったろうか、それでも私が言ったことを素直にそうするしか苦痛から逃れようがないのだと信じて、誠に忠実に繰り返し、吐く行為をやった事で、少し、気分が楽になったようで、又、階段を一段ずつ、何度も休憩を取りながら登って、やっと、土合駅の地上に出た。
けれど、恭介のようすを見ていて、私は、恭介がこれから、とても谷川岳に登山できる状態ではないと思い、どうしたらよいのか、このまま、帰るべきだろうかと考えあぐねていると、恭介はいきなり言った!
「この辺に泊まれる宿はないの?」
「泊まれるところがあれば、今日は僕、ゆっくり休みたいから!」
「宿をさがして、連れて行ってくれないか?」
「みさちゃん、僕、とても辛いんだよ!」
「まるで、体が動いてくれないだ!」
いかにも辛そうに、喘ぎながら、私に訴えて、恭介はそこにへたり込むように座り込んでしまった。
私はふと思い出した、確か、土合の駅から少し下ったところに「山の家」があったはず、あの小屋に頼み込んで今日は恭介を休ませてもらおうと、座り込んでいる恭介の手を取りゆっくりと歩いて貰って、やっとの思いで「土合山の家」にたどりついた。
さすがの私も自分のリックと恭介のリックを担ぎ、恭介の手を取り支えながら歩くのは大変で、小屋についたときは、ほっとした気がして張りつめていた気持ちが楽になったように思えた。
小屋の管理人に事情を話しても不思議な顔をされて、小さな小屋だが、今は午前中の早い時間でもあり周りには泊まり客も無い殺風景な空間に薄暗い土間があるだけの場所はいかにも山小屋の空間だった。
小屋番のおじさんも私たちの様子を見て、どんな風に思ったのかは分からないが、ちょっとの間をおいてから、今日はここに泊めてもらう事を許されて、宿代を先払いして、ふたりは奥の畳が敷かれている10畳ほどの広間に休んで良いと言われて、私はリックをそのままにして、恭介を支えて歩いて行き、指定された場所に布団を敷き、恭介を寝かせた。
私はなるべく音を立てずにそっと荷物を運びながら恭介の様子を見ながら、整理してから、恭介の今後を考えていた。
あす、体調が快復したら、とにかく、東京へ戻ろうと思った。
恭介の最初の望みは、「何処か、遠くに行きたい!」と言う事・・・
今、置かれている恭介の身の置き所も無い、精神的に追い詰められた状況から逃げ出したい思いだけだったが、どういうわけか、ふたりで家出の相談をしていて、「谷川岳」登る事に話が決まったが、恭介は登山の経験が全くなかったが、なぜか、恭介は「谷川岳」にこだわっていて、どうしても登りたいから、連れて行ってと言い、決まった事だった。
丸一日、山の家で休んでも、恭介の体調は良くはなかったが、けれど、次の日の朝、恭介はそんな状態の中でも、みように我をはり、谷川岳に登りたいと言い張った。
私の仕事の休みは今日だけしかないから、普通に考えれば、明日帰っても無断で仕事を休む事になる。
けれど、このときの私の心境は不思議なほど、常識的なことは忘れていた。
こんな心境を「惚れた、弱み」とでも言う事なのだろうか、私は、恭介が、谷川岳に登りたいと言えば、その希望を叶えてあげたいと素直に思えたし、そうするべきだとも思えたのだった。
その時の私は、恭介の心の中を読み取れるほど、大人でもなく、むしろ恭介をただ夢中で愛している恋人でいたかったのだろう。
(7)
恭介が、今まで、登山どころか、軽いハイキングをもした事も無い、山に入った経験が全くない、ましてや、今回の旅で体調をわるくして、谷川岳に登れるほどの体力が快復してはいなかった事さえも考え付かないほど、私は恋に溺れた愚かな女になっていたのだった。
むしろ、私が支えてあげれば、恭介は男性なのだし登山の苦しさくらいには耐えられると簡単に考えていた、あの時の私自身が登山者として過信しすぎていたのだろう。
恭介は一晩ゆっくりと休んだのだから、もう、睡眠不足による、体調不良も快復しているだろうと、軽く考えてしまっていた。
夏の登山シーズンとしては少し早い6月のはじめの今、谷川岳は新緑が美しい季節だ、まだ夜も明けきらぬ早朝の5時前に恭介の体調を少しだけ気なりながらも、私の気持ちは逸っていた。
何事においても恭介と知り合って、恋人同士になってからも、どうしても私は自分でも気づかないうちに気後れしている部分が多かった気がしていた。
今の時代であったならば、身分が違いすぎるなどと言う事の偏見を持つ必要も無いのだけれど、あの頃は、恭介と私では学歴も家柄も違いすぎた、したがって、恭介と私の知識の違いも多い気がして、たとえ、知っている事でさえ、口ごもったり、物事を知らぬふりをして、ぎこちないそぶりが可笑しくもあったけれど、恭介の素敵さが、私を不安な気持ちにする時も多くあった。
けれど、私には、登山、山の事だけは唯一、恭介に堂々と話せる事であって、自信のもてる事でもあった。
恭介がなぜか、谷川岳に登ろうと言った時、恭介の心のうちを知らずに、私はとても嬉しかった。
作品名:贅沢な寂しさ・・・(短編小説) 作家名:ちょごり