【黒歴史】 全速力で走る霊 【2002年(18歳)】
8. ホームレス、川に浮ぶ
夜。
名前も無い水路橋の欄干に乗り出すように寄り掛っていた。
昨日までの大雨が、今夜の川の水量を遥かに増加させ、
脈打つ水面に揺らぐ月を朧げな容姿で映している。
それはまるで、淡色で造られた万華鏡のようだと思った。
馬鹿馬鹿しい。俺はまだ現世に美しい物が在って、
努力すればそれが手に入るとでも信じているのか?
糞。今この川に飛び込んで水中から浮んでいる月を見たら
どう見えるだろう。
と、突然その時背後から図太い声がして、どきりとした。
「タマちゃんって知ってる?」
振り返ると、汚らしい格好、中年の浮浪者と思われる
人物が頬を紅潮させ、酒瓶を片手に覚束無い足取りで
地面に流されていた。アル中のホームレスか?
タマちゃんと言うのは、この夏多摩川に現れた
訳の解らないアザラシの事だ。
テレビでは一時期、狂ったようにその事が報道された。
浮浪者は続けた。
「あいつ、浮んでるだけだぜ。浮んでるだけで、
人気者だぜ。んでなあ、決めた」
「何をですか」
「俺も川に浮かぶっつーの。
俺も『ちゃん』付けされたいっつーの」
不意に浮浪者が急に俺の視界から消えた。
まさか。橋桁を覗き込む。
恐らく実際の速度より遥かに
緩い体感速度で、深すぎる真っ黒な川に
吸い込まれて行く浮浪者が見えた。
あまりにも無力な、一葉の落葉のようだった。
続いて、ザブーン、と水飛沫が高く上がる音。
それを聞いて俺はディズニーランドの
スプラッシュマウンテンを思い出した。
水面をバチャバチャ言わせながらやつは、
こともあろうにこんなことを叫んでいる。
「た、助けて!!」
そんな馬鹿な。自分から飛び込んでおいて、
それは無いだろう。
「あのー!浮かぶんじゃないんですかー?
あのアザラシみたいにぃ!!」
「助けてぇ!!泳げねぇんだもん!!」
開いた口の塞がらないおっさん。
仕方なく、そこらに都合良く置いてある一斗缶を
川に放りこんでやる。川がまた汚れたな。
こいつのせいで。
10分後、浮浪者は全身から雨を降らしながら、
四谷階段のように川から這い上がってきた。
禿げかかった頭髪がペタリと額に垂れ下がって、
なんとも情けない。
おっさんの名は北島と言った。
ある有名国産自動車会社のディーラーだったが、
リストラの煽りをもろに受け、失職。
借金に次ぐ借金を重ね、借金取りから身を隠すため
作品名:【黒歴史】 全速力で走る霊 【2002年(18歳)】 作家名:砂義出雲