Future Star
もう、あれから2年が経ったと、こぼれていくクリスタルの砂を見て、思う。
本棚には、最後の一ページを残した日記帳がきちんと鍵をかかったまま、眠っている。
一人で抱え込むなと言ってくれた優しい人も、砂時計の砂は現在、過去、未来になっていると教えてくれた素敵な人も、今はもういない。
彼らは一年前に、二人同時にたった3年で大学を卒業し、史里さんは、精神科医に、赤髪の彼は文学研究家になり、
フランスに建てた史里さんの家で一緒に暮らしているらしい。
彼らと出会った日を境に、私と鈴音さんの関係も大きく変化し、私自身も少しは変わったなと思う。
元気にしていますか、と心の中で大切な人たちに話しかける。
そうすることで、安心するのは自分一人だけだと、知っていながらも。
ドアをノックする音が聞こえる。
時計を見ると夕食の時間を指していた。
すぐに行きます、と返事をして、席を立つ。
大きなクローゼットの一番奥から隠していた白いドレスを取り出し、着替える。
少し露出が多いのではないかといつも思うけれど、私が選んだわけではないから仕方がない。
母が私のこんな姿を見たら、と考えるとぞっとしないけれど、今日は大丈夫だろう。
鏡を見て、淡い口紅をつけてから、食事前だということに気づき、何をやっているんだろうと頭を抱えたくなった。
二時間前にいれた紅茶は一滴も飲まれないまま、机の上に取り残される。
「真ん中にメインディッシュ、3時にスープ、5時にオードブル、7時にパンです。
飲み物はいつも通り、9時、鈴音さんの左肩にあります」
はいよ、と答えて彼女はワインに口を付ける。
グロスが光る真っ赤な唇に、赤い液体は消えていく。
その様子を見て、この人は自分がどんなに綺麗な唇をしているかなんて一生知ることが出来ないんだな、と二人きりで食事をするときいつも思う。
鈴音さんは、全盲にもかかわらず、大抵のことは自分一人で出来る。
ナイフとフォークを使って器用に食事をする場面だけでは彼女の目が見えないことに気づく人は少ないだろう。
赤いマニキュアを塗った爪が、私の視界に映って落ち着かない。
「メインはサーモン?肉が食べたいな」
「・・・勝手なことばかり言わないで下さい。
昨日肉は食べたじゃないですか。
バランスの良い食事をしないとお体に障ります」
「いいんだよ、私は。
それよりもな、レア、お前もうすぐ16だろ。
そろそろワインくらいは飲めるようになった方がいいと思うぞ」
私は確かにあと一ヶ月で16歳になる。
それが私たちにとって何を意味しているかなんて、今更口になんて出せない。
私の胸がぎゅっと痛くなる。
私の気を知っているのか知らないのか、鈴音さんはそんなことを言いながら、自分のグラスを私の手元に近づける。
「ワインは苦いから嫌いなんです」
苦くて苦しいのは私の気持ちだとは言えなくて、差し出されたグラスを引き戻す仕草。
彼女にはそれで十分に伝わる。
鈴音さんは目が見えないからなのか、空気を感じ取るように、私の話し方や簡単な仕草だけで、気持ちも読みとってしまう。
グラスが彼女の手に戻り、彼女がそれに再び口を付けた直後、鈴音さんは不意に隣に座っていた私を左腕で引き寄せ
、もう片手にはグラスを持ったまま、私の唇を奪う。
一瞬の動作で、抗う隙も無かった。
シャンデリアの光がバカラのグラスに反射して放つ輝きが視界の端に映り、反射的に目を閉じる。
食事の前から意識していた鈴音さんの唇の柔らかい感触に目が回り、口に流れ込んでくる、液体に私は噎せそうになりなっているのに、鈴音さんはなかなか唇を離してくれな
い。
上を向かされているせいで、飲み込めないワインが唇の端からこぼれていることに、首筋を伝う冷たい感覚で気づく。
肌の上を移動する生温い液体が、くすぐったくて僅かに体を捩ると、鈴音さんはより強く私を抱きしめた。
よく似合うと言ってくれた胸の開いた白いドレスに染みが付かないかと心配になる頃に、やっと鈴音さんは唇を離す。
恥ずかしくなって顔を背けると、鈴音さんは私を引き寄せた方の手で、私の髪を梳き、首を撫でる。
やめてください、と小さな声で抵抗しつつも、びくり、と
震えてしまう体を、鈴音さんは、不正直な子だね、と低い声で笑った。
鈴音さんに力を抜けた体を預け、僅かに目を開けると、視界に、食べかけの皿が入り、食事中だったことに気づく。
「ま、まだ食事中です・・・って、あの、私に何を」
「さあ、何だろうね」
不意に与えられた首筋の刺激に、再び視線を鈴音さんに戻す。彼女は私の肌に唇を付け、こぼれた赤い液体を舌で掬い取った。時折見える彼女の赤い舌に、誘惑されているような気持ちになり、くらりと目眩がする。
駄目だ、私はまた負けてしまう、と徐々に鈍くなっていく理性が脳の奥の方に警鐘を鳴らす。
それでも結局私はされるがままになり、彼女に与えられる切なくて悩ましい感覚に吐息を吐く。
時折歯を立てられても、それすら電流が走るような快楽に、私は次第に溺れた。
自分の力で立っているのは私の最後の抵抗かもしれない。
それに気づいたのか、腰に手を回され、移動を促される。
行き先は自明だったので問わなかった。
鈴音さんに寄り添い、よろめく足取りで、残された料理を見ないようにして部屋を出るとき、お風呂にすらまだ入っていないことに気づき、頭を振った。
「どうした?」
「・・・いえ、せめてシャワーを・・・」
ああ、じゃあ、と彼女は微笑んだ。
私をどきどきさせる大人の微笑み。
私の耳元に唇を近づけてトーンを落とした口調はとても素敵なことを思いついた、というように。
「バスルームでもいいけどな」
彼女のとても魅力的な提案と魅惑的な彼女の声音に私は完全に考えることを放棄した。
作品名:Future Star 作家名:ちひろ