Future Star
見ることを許されていないテレビを家が留守の間に見るのは私の楽しみだったからよく覚えている。
その後彼は病気による弱視を理由に庭師を引退したという話を私は上院議員の父から聞いた。
父が言うには現在はここイギリスで、医師免許を取得するためにオックスフォード大学に入学したらしい。
でもまさか。
私は彼が話していた同居人についての話を思い出す。
「この家はそいつの持ち物」
驚き顔を隠せない私をよそに彼はあっさりと言う。
「でもそれって…」
「史里菖蒲、俺の恋人だ」
彼は恥じらう様子もなく言ってのける。
私はというと驚くあまり声も出ない。
こ、恋人って、と頭の中が混乱する。
私が鈴音さんのことが好きだということさえ誰にも言ったことがないのに、こんなに簡単に同姓の関係を肯定してしまうなんて。
私なんかにこんなこと話してもいいんですか、隠してたのではないですか、と聞くと彼は特に気にしたことはないと言う。
それどころかこの国だっていつかは伝統社会から抜け出して自由主義になる日が来るさと彼は陽気に言った。
私と正反対の自由で奔放な彼の性格はどこか鈴音さんと似ている部分があるなと私は気づく。
「だから、心配なんかすんな。
誰のことを好きになるかなんて決めるのは自分だろ」
自分、と言いながら彼は私を指さす。
「でも、好きだって分かってもうそれしか考えられなくなってしまうんです。
今日だって」
彼女のことを考えながら歩きさえしなければ、車に轢かれそうになんてならなかった、と私は心の中で付け足す。
もうこんな苦しい思いをしたくない。
こんな苦しい初恋ならいっそ終わってしまえばいいのに。
再び目に涙が浮かんできて、マグカップに雫が落ちる。
彼は黙ってティッシュペーパーを私に渡して言った言葉は予想外のものだった。
「言ってみろよ、お前が言いかけて止めた言葉。
お前の好きな奴にぶつけて来い」
そしたら気持ちも楽になるし、もしそれで嫌われたらそれはそこまでで諦めもつくだろと彼は言う。
「どっちにしても何もしなければこのままだ。
行動を起こせば何かが変わるかもしれないし、もうお前が悩まなくて済むかもしれない」
「ぶつけるって、それって、こ、告白ですよね。
いつどのタイミングでなんて言えばいいんですかっ」
私はさっきからこの人になんてことを相談しているんだろうと思いながらもこの人の話はなぜか聞いて帰らなければならないような、そんな気がした。
「告白なぁ。
俺の場合は・・・」
彼は言いかけたが不意にドアのほうに目をやる。
私もつられてドアのほうを見たけれど、何も起こらない。
すると彼は呪文のような言葉をドアに向かって吐き出す。
フランス語らしいが、なんと言っているのかまでは分からない。
「Une fleur pourpre,entrez.」(入って来いよ、紫の花)
すぐにドアが開き、長身の男の人が入ってくる。
人目で見て、史里菖蒲だと分かる。
彼はテレビで見た彼そのものだった。
史里さんは微笑んで答える。
「Maintenant,un papillon rouge.」(ただいま、赤い蝶)
それから史里さんは私の目の前の彼に近づき、頬に口付けた。
彼もまた、唇を返してから、「趣味悪いな」と言った。
今度は私と話していた時の流暢な英語。
立ち聞きしていたことを指しているらしい。
「貴方が女の子連れ込むなんて珍しいですから、つい、ね」
「ご、ごめんなさい。
私のせいなんです、私がちょっと」
泣いてしまったせいで、と恥ずかしくて殆ど聞こえないような声で言う。
変な誤解をされたらどうしよう、と私は内心焦る。
そんな私の心配をよそに史里さんはくすくすと笑いながら、可愛いですね、貴女、と言った。
私の代わりに目の前の彼も、だろ?と頷く。
「運命の相手だと言うんですよ」
史里さんは彼の隣に座り、唐突ににこやかな表情で言った。
突然で何のことを言っているのか分からない私はずっと目の前にいる彼を見る。
彼は僅かに顔を背けながら、さっきの話の続きだろ、と言う。
彼の怒ったような複雑な表情を見るに、どうやらそう言ったは彼自身らしい。
見かけによらず、ロマンティックな部分があるんだなと私は一人で感心しながらも、頭の中は「告白」という単語でいっぱいになっていた。
「告白というのは階段の一段目です。
踏み出さないことには何も始まりません。
上ることも降りることも出来ずに足踏みしている状態では何も変わりませんよ」
史里さんは優しい口調で言う。
彼はさらにこう続ける。
「貴女は、告白して初めて恋愛する資格を持つのです。
逆に言うと、これを乗り越えられない人に、貴女にもあるかもしれない「その先」は存在しません」
年長者からのアドバイスですよ、と彼は微笑んで言葉を締めくくる。
史里さんの優しくて少し厳しい言葉は「告白」という単語に縛られた私を解き放ってくれた。
それでもまだ一歩踏み出す覚悟が出来ない理由が私にはある。
「でも、」
口にするつもりは無かったのに鈴音さんが私に向ける感情は私が鈴音さんに向けるものとは絶対違う。
私の気持ちなんて素知らぬ顔でいて、お金遣いが荒くて、努力知らずで、いつも飄々としていて、目が見えないことに負い目を感じさせないほど何でも簡単にこなしてしまう、私とは正反対の性格。
「あの人は絶対私のことなんてこれっぽっちも思ってないだろうし、年だって離れているし、きっと相手にしてくれません」
そう言うと史里さんはくすり、と笑って「本当にそうでしょうか」と言う。
どうして笑っているのか私には分からなくて、赤髪の彼を見ると彼も面白そうな表情をしている。
理由はすぐに分かった。
バタバタとせわしない音がし、それはだんだんこの部屋に近づいてくる。
数秒後、バタンという音と共にドアが勢いよく開いた。
思わずドアの方に目をやる。
白い杖、真っ赤なコート、香水の匂い。
信じられないことにそこには鈴音さんが立っていた。
「帰るぞ、レア」
鈴音さんにしては珍しく慌てていたらしく、家を飛び出してきた様子で、僅かに息も切れている。
さっきの話を聞いていませんように、と私は心の中で祈った。
「不法侵入ですよ、姫宮」
史里さんは特に驚いた様子もなく、私の隣に優雅に腰掛ける。
鈴音さんを名字で呼び捨てにするなんて史里さんはかなりの大物だ。
「鍵が開いていればどこに入って許されるんだよ、少なくとも私はな、史里」
相変わらずの無茶苦茶な論理である。
この人のことだから、ドアは私が開けるためにある、くらいは思っているのだろうな、と私は苦笑したい気分になる。
「それはそうとな、史里、うちの可愛い弟子に変なこと教えちゃいないだろうな」
「恋愛のテクニックを少々」
「内容次第ではお前のとこの赤髪貰っていくぞ」
「貴女こそ人の恋愛に茶々入れている場合では無さそうですけどね」
「その恋愛を与えてやった恩は忘れてくれるなよ」
鈴音さんはいつもの強気な笑みを、史里さんは優美な微笑みを浮かべているけれど、二人とも目が笑っていない。
どうやら史里さんと鈴音さんはお互いを嫌っているらしい。
作品名:Future Star 作家名:ちひろ