Future Star
どうしよう、どうしようと学校の帰り道、バス停から自宅へ戻るまでの数歩間、私の頭はただ、一つのことで占められていた。
今から思えば、危うく命を落とす所だったのだから、数年経った今も笑えるものではない。
このころの私は、今よりずっと子供で、伝統と格式に縛られた異質な環境で育ったせいか何も知らなくて、勿論恋なんてしたこともなく、鈴音さんが私の家に来てから変化し続ける複雑な感情を持て余していた。
タロットカードを両手に、覚えたての星の名前を復唱しながら不安定な精神状態で歩く。
星の名前も頭に入らず、ただ鈴音さんの姿が頭から離れない。
将来は婚約者がいることも知らされていたし、その人と自分が結婚するのだということも漠然とながら理解していたし、何の抵抗も無かった筈だった。
まさか自分が女の人に恋をするなんて。
家のしきたりからも、宗教的な規律からもそんなことは許されない。
途方に暮れるあまり、私は車のクラクションに気づかなかった。
私の住んでいる所はロンドンからは離れた郊外の田舎で、車が通ることはあまりない。
というのもこの周辺の土地はスチュアート家が所持しているため、交通量などを制限しているのが主な原因だろう。
車に気づかずに悩みながら歩いている間も、車は近づき、私がやっと気づいたときには、避けられない距離まで迫っていた。
車のライトが目に焼き付き、タロットカードが宙を舞う。もう駄目だ、私は死んでしまうんだと思った瞬間、私は強い引力で横に投げ出された。
すぐに衝撃を感じる。
地面に激突したらしい。
恐る恐る目を開けてみると車は走り去った後で、排気ガスの臭いが鼻につく。
その後すぐに私は自分の後ろに立っていた人に気がついた。
綺麗な目をした赤い髪の男の人。
イギリスではあまり見ることのない顔立ちで、粗野な印象を受けるが、全く怖くは無かった。
彼は興味深そうに私のタロットカードを眺めていた。
彼は私を見ると起きられるかと、手を差しだし、私を引っぱり起こす。
助けてくれたのは彼らしい。
「あ、ありがとうございます」
まだ、さっきのショックから立ち直れず、声が震えているのが自分でも分かる。
それから、声を発したという事実が今自分は生きているという実感を生み、安心したのか放心したのか、目に涙が浮かぶ。
しかし、すぐに自分は後ろから来ていた車に気づかなかった理由を思いだし、恥ずかしくなる。
それと同時に問題は何も解決していないのだという事実を知り、苦しくなり、涙は止まらない。
彼は戸惑った顔で私を見ているけれど、私も制御できない自分自身に戸惑っていた。
何か言わなくてはと、急いで言葉を探すが、出てきたのは自分でも予期しない言葉だった。
「あ、あのっ、わ、わたし、私、変なんです、助けて下さい、実は、じょ、女性に、こ、恋してるんです、どうしたらいいです、か」
しゃくりあげながら私は言ってしまった後、自分はなんてことを言ったんだと気づいて真っ青になる。
「…は?」
彼は私の思いがけない言葉に一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに吹き出し、笑いだした。
彼は呆然とする私をよそに一頻り笑った後、奇遇だな、と言う。
「とりあえず、家来るか?
その顔じゃ家に帰れないだろ」
お前有名人だからな、と言って彼は歩き出す。
彼の家は私の家から三筋ほどしか離れていなかった。
今から思えばあのときどうして私は彼についていったのか正直分からない。
知らない人に付いていってはいけないというのは何度も言われてきたことだったのに、なぜか私はそんなことさえ考えなかった。
それどころか一度も会ったことさえないのに私は何故か彼に親しみと懐かしさを感じていた。
おそらく彼には人を惹きつける不思議な魅力があるのではないかと思う。
家の中は静かで落ち着いていた。
私の家のような暗さはない、よく日の当たる明るいリビングに彼は私を家の中に招き入れた。
椅子を勧められ、数個置かれたクッションを脇にどけて、革張りのソファーに座る。
彼は私にコーヒーでいいかと聞くと、部屋を出ていった。
部屋の中を見渡すと、新しくはないけれど、よく手入れが行き届いており、特に部屋ごとににさりげなく飾られた花ばなが、素人には真似できないようなアレンジで彩りを添えている。
クリーム色の壁には私の家にあるのと同じ作者の絵画が掛かっていた。
私は一目見てこれは本物だと悟る。
左端にあるサインの筆跡やインクのかすれ具合、そしてスチュアートの直感がそう告げていた。
この画家の作品は全てスチュアート家が所有していると昔から聞いて育ったのにも関わらず、ここ数年の時代の変化がこの家に影を落とし、家宝をいくつか手放しざるを得なくなったことを私は知っていた。
それでも、一般人に買えるような値段で手放したとは考えにくい。
いったい彼は何者なのか、どうしてこんなところに住んでいるのだろうかと今更思う。
そんなことを考えているうちに、彼はマグカップを持って戻ってくる。
有名な北欧ブランドのマグカップを私の目の前に置くと、彼は私の向かいに座る。
黒い液体を見つめながら私は、コーヒーは飲めないと言えなかったことを後悔しながら、それでも覚悟を決めて口を付ける。
口全体に甘い味が広がったことに驚き、思わず彼を見ると、彼はさらっとコーヒーを切らしていたと言った。
彼の何気ない気遣いに感謝しながら、私は改めて助けてもらったことのお礼を伝え、気になっていたことを訊ねてみた。
「あの、私、貴方のお名前も知らないのに貴方は私のことを知っていて、それで」
貴方は何者なんですかという言葉が危うく口から出そうになる。
ぎこちない話し方しかできない自分が歯がゆい。
「お前のことなんてこの辺に住んでる奴なら誰でも知ってる。「Princess of Stuart family(あのスチュアート家のお姫様)」とか皆呼んでるだろ」
私は皮肉でも何でもないただの事実が込められた呼び名に唇を噛む。
彼はそんな私を特に気にすることもなく、続けて自分のことを話し出す。
その話によると、彼はイタリア出身のケンブリッジ大学の学生で、ラテン語とヨーロッパ文化史を専攻しているらしい。
見た目からしてとても学生には見えないと思ったが、貴族の子孫に見えない自分が言えることではない。
彼は同じ大学の、医学専攻の日本人と一緒に住んでいて、この家はその人の持ち物だと話してくれた。
話が一通り落ち着いたあと、彼は私に聞く。
「そういえば、お前、女の人がどうのこうのとか言ってなかったか」
私はさっきの失態を思い出して恥ずかしくなった。
もうそれは忘れて下さい、と言う私に彼は唐突に史里財閥は知っているかと聞く。
話の飛躍に少し戸惑いを感じる。
「日本の七名家四大財閥の一つですよね」
規模としては西園寺に次ぐ二番目で事業展開も「史里ブランド」を作り出し、かなり幅広くしている。
そう言ってから、鈴音さんも七名家の出身だったなとまた意識が彼女に移りそうになる。
「そうだ。
それで、そこの総裁の次男が有名な庭師だったんだ」
「私、その方知ってます、名前だけですけど。
史里菖蒲さんですよね。一度だけテレビで見ました」
今から思えば、危うく命を落とす所だったのだから、数年経った今も笑えるものではない。
このころの私は、今よりずっと子供で、伝統と格式に縛られた異質な環境で育ったせいか何も知らなくて、勿論恋なんてしたこともなく、鈴音さんが私の家に来てから変化し続ける複雑な感情を持て余していた。
タロットカードを両手に、覚えたての星の名前を復唱しながら不安定な精神状態で歩く。
星の名前も頭に入らず、ただ鈴音さんの姿が頭から離れない。
将来は婚約者がいることも知らされていたし、その人と自分が結婚するのだということも漠然とながら理解していたし、何の抵抗も無かった筈だった。
まさか自分が女の人に恋をするなんて。
家のしきたりからも、宗教的な規律からもそんなことは許されない。
途方に暮れるあまり、私は車のクラクションに気づかなかった。
私の住んでいる所はロンドンからは離れた郊外の田舎で、車が通ることはあまりない。
というのもこの周辺の土地はスチュアート家が所持しているため、交通量などを制限しているのが主な原因だろう。
車に気づかずに悩みながら歩いている間も、車は近づき、私がやっと気づいたときには、避けられない距離まで迫っていた。
車のライトが目に焼き付き、タロットカードが宙を舞う。もう駄目だ、私は死んでしまうんだと思った瞬間、私は強い引力で横に投げ出された。
すぐに衝撃を感じる。
地面に激突したらしい。
恐る恐る目を開けてみると車は走り去った後で、排気ガスの臭いが鼻につく。
その後すぐに私は自分の後ろに立っていた人に気がついた。
綺麗な目をした赤い髪の男の人。
イギリスではあまり見ることのない顔立ちで、粗野な印象を受けるが、全く怖くは無かった。
彼は興味深そうに私のタロットカードを眺めていた。
彼は私を見ると起きられるかと、手を差しだし、私を引っぱり起こす。
助けてくれたのは彼らしい。
「あ、ありがとうございます」
まだ、さっきのショックから立ち直れず、声が震えているのが自分でも分かる。
それから、声を発したという事実が今自分は生きているという実感を生み、安心したのか放心したのか、目に涙が浮かぶ。
しかし、すぐに自分は後ろから来ていた車に気づかなかった理由を思いだし、恥ずかしくなる。
それと同時に問題は何も解決していないのだという事実を知り、苦しくなり、涙は止まらない。
彼は戸惑った顔で私を見ているけれど、私も制御できない自分自身に戸惑っていた。
何か言わなくてはと、急いで言葉を探すが、出てきたのは自分でも予期しない言葉だった。
「あ、あのっ、わ、わたし、私、変なんです、助けて下さい、実は、じょ、女性に、こ、恋してるんです、どうしたらいいです、か」
しゃくりあげながら私は言ってしまった後、自分はなんてことを言ったんだと気づいて真っ青になる。
「…は?」
彼は私の思いがけない言葉に一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに吹き出し、笑いだした。
彼は呆然とする私をよそに一頻り笑った後、奇遇だな、と言う。
「とりあえず、家来るか?
その顔じゃ家に帰れないだろ」
お前有名人だからな、と言って彼は歩き出す。
彼の家は私の家から三筋ほどしか離れていなかった。
今から思えばあのときどうして私は彼についていったのか正直分からない。
知らない人に付いていってはいけないというのは何度も言われてきたことだったのに、なぜか私はそんなことさえ考えなかった。
それどころか一度も会ったことさえないのに私は何故か彼に親しみと懐かしさを感じていた。
おそらく彼には人を惹きつける不思議な魅力があるのではないかと思う。
家の中は静かで落ち着いていた。
私の家のような暗さはない、よく日の当たる明るいリビングに彼は私を家の中に招き入れた。
椅子を勧められ、数個置かれたクッションを脇にどけて、革張りのソファーに座る。
彼は私にコーヒーでいいかと聞くと、部屋を出ていった。
部屋の中を見渡すと、新しくはないけれど、よく手入れが行き届いており、特に部屋ごとににさりげなく飾られた花ばなが、素人には真似できないようなアレンジで彩りを添えている。
クリーム色の壁には私の家にあるのと同じ作者の絵画が掛かっていた。
私は一目見てこれは本物だと悟る。
左端にあるサインの筆跡やインクのかすれ具合、そしてスチュアートの直感がそう告げていた。
この画家の作品は全てスチュアート家が所有していると昔から聞いて育ったのにも関わらず、ここ数年の時代の変化がこの家に影を落とし、家宝をいくつか手放しざるを得なくなったことを私は知っていた。
それでも、一般人に買えるような値段で手放したとは考えにくい。
いったい彼は何者なのか、どうしてこんなところに住んでいるのだろうかと今更思う。
そんなことを考えているうちに、彼はマグカップを持って戻ってくる。
有名な北欧ブランドのマグカップを私の目の前に置くと、彼は私の向かいに座る。
黒い液体を見つめながら私は、コーヒーは飲めないと言えなかったことを後悔しながら、それでも覚悟を決めて口を付ける。
口全体に甘い味が広がったことに驚き、思わず彼を見ると、彼はさらっとコーヒーを切らしていたと言った。
彼の何気ない気遣いに感謝しながら、私は改めて助けてもらったことのお礼を伝え、気になっていたことを訊ねてみた。
「あの、私、貴方のお名前も知らないのに貴方は私のことを知っていて、それで」
貴方は何者なんですかという言葉が危うく口から出そうになる。
ぎこちない話し方しかできない自分が歯がゆい。
「お前のことなんてこの辺に住んでる奴なら誰でも知ってる。「Princess of Stuart family(あのスチュアート家のお姫様)」とか皆呼んでるだろ」
私は皮肉でも何でもないただの事実が込められた呼び名に唇を噛む。
彼はそんな私を特に気にすることもなく、続けて自分のことを話し出す。
その話によると、彼はイタリア出身のケンブリッジ大学の学生で、ラテン語とヨーロッパ文化史を専攻しているらしい。
見た目からしてとても学生には見えないと思ったが、貴族の子孫に見えない自分が言えることではない。
彼は同じ大学の、医学専攻の日本人と一緒に住んでいて、この家はその人の持ち物だと話してくれた。
話が一通り落ち着いたあと、彼は私に聞く。
「そういえば、お前、女の人がどうのこうのとか言ってなかったか」
私はさっきの失態を思い出して恥ずかしくなった。
もうそれは忘れて下さい、と言う私に彼は唐突に史里財閥は知っているかと聞く。
話の飛躍に少し戸惑いを感じる。
「日本の七名家四大財閥の一つですよね」
規模としては西園寺に次ぐ二番目で事業展開も「史里ブランド」を作り出し、かなり幅広くしている。
そう言ってから、鈴音さんも七名家の出身だったなとまた意識が彼女に移りそうになる。
「そうだ。
それで、そこの総裁の次男が有名な庭師だったんだ」
「私、その方知ってます、名前だけですけど。
史里菖蒲さんですよね。一度だけテレビで見ました」
作品名:Future Star 作家名:ちひろ