音楽の人
臨月
(宇佐見とハネオ)静けさをなみなみとたたえたまなこ。
東京の音の洪水に倦まずなぶられて揺れるけれど一晩たてば、水をうったがごとくしんとして風もないまなこ。
静けさは俺を見つめるときに、限界水位まで、たかまる。
ほそい首の下にできる空間に腕を差し入れて眠る態勢に入ろうとしたところを、緩慢なしぐさで押しもどされる。
相手の身体のふたんになるのは自分のふみんのもとになるのだとぼやく。
おやすみのひとことで魔法のように瞼がふさってくる自分にはぜんたいわからない感覚だけれど、彼はこれから眠りにおちるためのいろはをひとつずつこなしていかなければならない。
「ウサはこどものころ催眠術をかけられたんだよ。おやすみって言葉がスイッチになってるんだ」
「そうかなあ」
「そうだよ。変だよ。絶対」
眠たがるこどもの声でぐずぐず言って、頭を枕からずり落とす。第二段階だ。
いつもならそこですぐさま寝返りをしてこちらに背を向けるのに、今日は胸もとに額をすり寄せてきた。洗いたてのにおいがする。
「ハネオくん」
「……んん、」
「ハネオくんもなんか変だけど」
「……何が。早く寝てよ」
「いいの、寝ても」
こんな体勢のとき、その大きなせなはどれだけ無防備だろう。まずはそこからちょっかいをかけることにする。
襟あしの生えぎわをすくって混ぜてやると、首をすくめてううと唸った。
突出した脊椎の一番、二番、三番を指先でなぞってゆく。四番めを越えてだんだんなだらかになる。
手のひら全部を使って、七番めから下のうやむやをいっぺんに撫でおろす。
うしろ腰の筋肉が張りつめて声もなくせなを反らしたところで咽もとに入り込んで、鎖骨のあいだにできる溝に舌をあてた。
頭上で短く息をつく音が聞こえる。
「ちょ、っと。駄目。やめなさい」
「なんで」
「なんでって、」
「よく眠れるよ。多分」
「駄目だっつうの。そうやって寝るとだいたい一時間くらいで起きちゃうんだから」
「そうなの、」
「そうなの。誰かさんはそのまま朝まで寝こけてるけどね」
「もっかい寝ればいいじゃん」
「無理だよそんなの」
窮屈そうに反転して今度こそといったふうに背を向けるのに、囲われた右腕のなかからぬけようとはしない。
寒いのかもしれないと思って毛布をたぐったけれど、おやすみスイッチによって半分寝かけている自分よりも彼の胸はずっと熱っぽかった。
基礎体温が高いんだ、そのくせ手足の先はいつも冷たい。いまも冷たい。
つま先で毛布の下を探って、その冷たい裸足をつらまえる。温度差はたちまち刺激になるはずで、彼はぬくみに抗えずにそろりと膝をからませてきた。
抱え込むようなかたちで上体が密着する。
肘から下を冷やすとよくないからと、夏のあいだも出ずっぱりだった長そでのシャツのすそから手を滑り込ませて、腹筋から胸もとまでを大きく撫ぜた。
ひらきかけたくちびるを襟ぐりからのばした指先でふさぎ、耳のうしろにキスをする。
そのまま髪の生えぎわをたどってゆくと、呼吸が変わった。くちびるのなかに指先をいれて、舌をさわる。
「ん、ふ」
「嫌?」
一瞬驚いたように押しもどされたので、聞けば無言で深くくわえなおされた。歯をたてないようにしておいて、上あごと舌できゅっと吸われる。
どちらかというと女の子のなかの感触だ。きれいな歯列をなぞって、口をひらかせる。ため息がもれた。
頚すじのやわらかい皮膚にぴったりとくちびるをあてて、あとをつけるふりをする。
「あ、だ、だめ……、」
「何が」
「おれ、」
「ええ?」
「だめ……、に、なる」
眠いやら泣きたいやら気持ちいいやら、全部がないまぜになった不安定な声でささやく。風邪っぴきみたいだ。
何やらやたらに可愛いものをいじめているような気になって、肘をたてて身を起こした。こちらに体重をかけていた肩は、ゆっくりとあおむいてゆく。
被さるように両手をついてのぞき込むと、ふさっていたまぶたがひらくところだった。
まめ球を点けっぱなしの部屋は夜目にあかるくて、ふたつの目とくちびるのぬれたところを、甘そうだと思う。
水のはったまなこは二度またたいて、下まつげの際をひからせた。
不安げに眉をひそめる彼は息もあがったままだけれど、俺はひたりと息をのむ。
静けさはたかまる。
そして決してあふれない。