リスタート
〈3〉
彩乃と別れてから、すぐに奈央子にメールを打った。話したいことがある、遅くなってもいいから今日は部屋に来てほしいといった内容で。
驚いたことに、10分もしないうちに返信が来た。届いたメールを開くと、こちらも話すことがあるから行くつもりだった、帰りが何時になるとしても待っているというふうに書かれている。
文面を読んだ途端、一瞬だが決意が萎えかけた。奈央子の「話すこと」とはいったい何だろう、と考えるとつい、悪い想像が浮かんでしまう。きちんと話をして、不安が自分の思い過ごしなら、今度こそ結婚について切り出すつもりだった――しかし思い過ごしでなければ、その決心も意味のないものになってしまう。恐怖心がよみがえってきた。
だが、今ひとりで考えていてもしかたない。そう無理やり割り切るまでにしばらくかかった。
それに先ほど、どんな結果になっても受け入れると、覚悟を決めたはずだ。携帯を閉じ、その場に立ち止まって深呼吸をする。ほんの少しでも気持ちを落ち着かせるために。
幸いにというか、会社へ戻った後は残業の必要もなく、ほぼ定時で退社できた。最寄り駅までの道中に再びメールを送り、これから帰ると報告した。
その後は脇目も振らずマンションへ急ぐ。普段は約1時間の道のりが、45分ほどに短縮された。
部屋に着くと、予想通り奈央子が待っていて、柊を出迎えた。すでに7時近いが、見たところ夕食の準備は全くされていない。
それどころではないほど重大な話があるのだろうと思い、また怖じ気づきそうになる。奈央子の何か思いつめたような固い表情が、予感にだめ押しをしているふうにも見えた。
スーツの上着を脱いだのみで、ダイニングの椅子に座る。先に座っていた奈央子が顔を上げてこちらを見たが、すぐに目を伏せてしまった。テーブルの上で組み合わせた自分の手をじっと見つめている。
沈黙がしばらく続いた後、再び奈央子が、今度は思いきったように勢いよく顔を上げた。そして口を開きかける。そのわずかな間に、タイミングを見計らっていた柊は割り込んだ。
「あのな、奈央子――なんていうか、おれ、今までおまえにすごく甘えていたと思う」
話し始めるタイミングを奪われたのと、話の内容の唐突さに、奈央子は少しの間憮然とした面持ちになった。しかしその表情は何度かまばたきする間に消えて、相手の話をひととおり聞くための真面目な顔つきへと変化する。
それに背中を押される心地で、柊は話を続けた。
「……気づいてないわけじゃなかったけど、深くは考えないようにしてた。正直、奈央子が甘えさせてくれるのが気楽だったから。……けど、逆におまえが甘えてきたことって、考えたらほとんどなかったよな」
単なる幼なじみと思っていた頃から、柊が奈央子に相談したり愚痴をこぼすのはよくあることだったが、その逆は数えるほどしか記憶にない。それも、本人から言い出した場合となると皆無に近かった。
就職して以降、慣れない仕事のことで柊がしょっちゅう愚痴らずにはいられなかったように、奈央子にもいろいろ思うことはあったはずである。だが、彼女が何も言わず聞き役に徹しているのをいいことに、自分の言いたいことは遠慮なく吐き出しても、逆に彼女はどうなのかと聞いてみたことはめったになかった。考えることすら少なかった。
「――それが、おれが気を遣ってやらなかったせいだとしたら、ほんとに悪かったと思う。今さらだろうけど……だから」
この期に及んでも、その先を口にするのは相当の勇気が必要だった。何とかかき集めて、一日中考えていたことを言葉にして声に出した。
「だから、もしおまえに愛想つかされてるんだとしても、それはしょうがないと思う。別れたいと思ってるなら、言ってくれればいつでもそうする」
一息に言って口を閉じ、相手の反応を待った。
途中までは真面目な顔で聞いていた奈央子は、最後の部分を聞くうちにぽかんとした表情になった。柊を見つめたまま、その表情はまだ変わらない。
柊も同じく見つめ返していると、急に奈央子の顔から一切の表情が消えた。あまりに突然でしかも予想外だったので、少なからずうろたえていると、
「――――そんなこと考えてたの」
抑揚のない、おそろしく低い声音で奈央子が言った。直後、立ち上がって柊のそばに来ると、無言で柊の左頬をひっぱたいた。平手で、それほど勢いもなかったから痛みは少ないが、奈央子がそうしたことに対する衝撃は強かった。お互い、相手に手を上げたことはこれまで全くなかったからだ。
「わたしの話が別れ話かも知れないって思ってたわけ? …………まったく、あんたってどれだけ鈍いのっていうか、ズレてるっていうか……」
まあどうせ気づいてないと思ってたけど、とつぶやきで奈央子は付け加えた。こちらを見る視線はなにやら奇妙な――少々恨めしげな感じである。しかし理由がわからないので沈黙するしかない。
そんな柊の様子に奈央子はため息をつき、なぜか泣き笑いに近い表情を浮かべる。それからおもむろに「……あのね」と、顔を柊の耳の方へと近づけてきた。戸惑ったままの柊に、奈央子は小さな声で短く、あることを告白した。
「……………………え」
聞かされたことを認識するのに、かなりの間が必要だった――それでもなお、理解にはまだ至っていない。顔を赤らめながら奈央子が言い足す。
「もうすぐ3ヶ月だって、今日病院で」
そしてだめ押しのように、自分自身の腹にそっと両手を当てる。そこまでされてはさすがに、理解しないわけにはいかなかった。