リスタート
〈3〉-2
……いや、本当のところは、子供ができたと奈央子が耳元でささやいた時、最近の彼女の様子――体調が悪そうに見えたことや食事についての疑問など全部が、一気に腑に落ちはしたのだ。
ただ、情けなくも一度も予測していないことだったからやけに意外に感じられて、頭の中に浸透するのに時間がかかってしまった。どうして全然考えなかったのかと、今は自分があまりにもうかつに思えてならない。その可能性は確かにあったのに。
さらに話を聞くと、気づいたのは連休前、つまり妙に顔色の悪かったあの日だという。柊の部屋に着いた直後、急に吐き気がして、治まってからあれこれ思い返して「もしかしたら」と考えたらしい。
「だったら、どうしてあの時言わなかったんだ?」
実際、柊の目にも何か話したそうに映ったのだ。そう思いながら聞かなかったのだから偉そうには言えないが、そんな重大事をすぐに話さなかった奈央子に、わずかながら腹立ちを感じてしまっていた。
その感情が声に出たらしく、奈央子は複雑な顔でうつむいた。しばし黙り込んだ後、
「……怖かったの」
「え?」
か細い声が聞き取れなくて思わず聞き返す。
「そうだとは思ったけど、確実にわかるまでは口に出したくなかったのよ――やっぱりまだ独身だし、今まで大丈夫だったからって油断してた自分が甘かったと思うし……それに」
奈央子はいったん言葉を切り、息を吸い込む。
「本当だってわかったら産むかどうするか考えなくちゃいけなくて、そしたら否応なく今の状態を変えざるを得なくなるから……そう考えたらなんだか少し怖かった。中途半端だと思うけど、でも今の状態がすごく居心地がよくて好きだったから、できれば変わらないままでいたかったの。都合が良すぎるのはわかってたけど」
彼女の言葉を聞きながら、柊は安心と後悔を同時に感じていた。今の状態について、奈央子も同じように考えていた事実は、柊の中の罪悪感を半分ほどに減らしはした。しかし、彼女にそんなふうに思わせた原因は、やはり言うべきことをさっさと言わなかった自分なのだと、あらためて自らの踏ん切りの悪さに嫌気がさす。
しばらく思いを巡らせてから、柊は椅子から立ち上がり、再び黙ったまま立ち尽くしている奈央子を座らせた。そして、姿勢を低くして彼女と目線を合わせる。「なあ」と声をかけ、奈央子が目をこちらに向けるのに合わせて切り出した。
「今度の休み、実家に行こうか」
「えっ?」
「やっぱ、親に無断で籍を入れるわけにはいかないだろ。いちおう先に報告しないと。……それでも、少なくともおまえの親父さんには怒られそうだけどな。もしかしたら殴られるかも」
「柊……?」
不安そうな顔をする奈央子の左手に、柊は自分の右手を重ねて包み込む。その薬指の、最初のクリスマスプレゼントであるプラチナリングの感触を確かめながら、表情をあらためて言葉を続けた。
「ごめんな、奈央子。おれがトロトロしてたせいで悩まなくてもいいことで悩ませて」
「そんな、別にそういうわけじゃ」
「いや、そういうわけだよ。男のおれがちゃんと考えておかなきゃいけないことだったんだ。だから、それこそ今さらだけど、でも大事なことだから言う――結婚しよう。なるべく早く入籍して、一緒に子供を育てていこう、な」
奈央子は目を見開いた。その反応は予想していたが、まだ不安の残る様子で「産んでいいの?」と尋ねたのには驚いた。反射的に、いくぶん非難するような口調になる。
「まさか、産まないつもりだったのか?」
「違う、そうじゃないけど――でも」
慌てて首を振りながら言った後、奈央子は口ごもってしまった。何か言おうとしつつも、適当な言葉がなかなか出てこないといったふうに見えた。
数十秒の努力の末、彼女が口に出したのは、
「……ほんとにいいの? これからいろいろ大変になっちゃうわよ?」
疑問形ではあったが、確認の言葉だった。先ほどまで声に混ざっていた不安げな調子はほとんど消えている。
「まあ、な。たぶん一日ものんびりしていられなくなりそうだけど……けど、子供のこと最優先に考えてやらなきゃな。無事に産んで、元気に育つようにしてやるのがおれたちの役目だろ」
「――ん、そうよね」
自らに言い聞かせるようにそう言って、奈央子は何度もうなずく。そして、次に顔を上げた時には、今日初めての笑顔を柊に見せた。目にうっすらと涙が浮かんでいる。
椅子に座ったまま、奈央子は柊の肩に腕を回して抱きついてきた。「ありがとう」と涙まじりにささやく声が聞こえた。
奈央子への愛おしさ、そして彼女の中にいる小さな命への愛情がにわかに溢れてきて、胸がいっぱいになる。その想いを腕にこめて、柊も奈央子を抱きしめ返した。
互いの両親への報告を済ませ、婚姻届を出したのは、それから一週間後のことである。
―終―