リスタート
〈1〉-2
その間に大学を卒業し、自分は会社員に、奈央子は公立高校の英語教師になった。実家のある県ではなくこちらで採用試験を受けたので、彼女は今も学生時代と同じ女性専用マンションに住んでいる。
しかし実際に帰るのは週に2・3日程度で、残りは柊の家で過ごしている状態だ。
就職して半年ほど過ぎた頃、いくらか資金ができたのを機に、ワンルームから今の2DKに引っ越しをした。それを境に、奈央子がこちらの部屋で過ごす時間も長くなった。以前は泊まるとしても週末のみだったが、ここ1年ほどは、平日でも遅くなった時にはそうするようになっていた。もっともその場合、着替えるためにと始発が出る頃には帰っていくのだが。
とはいえ、実質的には半ば以上、一緒に暮らしているようなものである。年齢その他の状況を考えても、結婚を意識しないと言ったら嘘だった。
正直、引っ越す先に小さいながらも2DKを選ぶ際に、頭をよぎったことでもあった。けれどまだ就職1年目だしと、踏み込んで考えることは先延ばしにした。……それからもうすぐ2年。
夕食をとりながら必要以上に視線を向ける柊に、奈央子は当然ながら気づいている様子だった。
「ね、やっぱり言いたいことあるんじゃない?」
一度はそう尋ねもしたが、柊が首を振るのを見て「……まあ、本当に何もないならいいけど」とつぶやくように言った後は、何も聞かなかった。
明日は土曜日で、お互いに仕事も休みである。夕食の片付けを終えた後も奈央子は帰らず、そのまま当たり前のように泊まる流れになった。
一緒にベッドに入ってからも、言うべきことを考え続けてはいたのだが、口に出す踏ん切りがつかないうちに奈央子は眠ってしまった。寄り添っている彼女の重みと、パジャマ越しに伝わる体温に心地よさを感じながら、そんな自分に対していくらかの自己嫌悪も覚えずにはいられない。
奈央子と一緒にいるのは、とても気楽で落ち着くことだった。文字通り子供の頃から馴染んだ相手であると同時に、彼女が柊の好みや癖をよく知っていて、可能な限り合わせてくれるからだ。
今の関係になってあらためて思ったのは、奈央子が非常によくできた、理想的と言っていいほどの女の子――女性だということだ。もともと美人ではあるが、24歳の今では大人びた雰囲気が加わり、学生時代よりもはるかに綺麗になった。年齢以上の落ち着きを感じさせるのは、教師という職業が関係しているかも知れない。教師としての彼女も優秀らしく、2年目の去年にはもう担任を任されていた。今年度も(クラスは別だが)引き続き担任になったとのことで、日々張りきっている様子である。
そんな奈央子が恋人でいること、言いかえれば自分を好きでいるということが、時折ひどく奇妙に思える。彼女がかなり前から柊を想ってくれていたのは聞いているが、それほどの何かが自分にあるとはいまだに考えられなかった。落ちこぼれではなかったけど、奈央子に比べれば何もかも平凡な人間だと柊自身は思っている。
しかし奈央子の態度は、付き合い始めた頃から今までの間、まるで変わりがない。都合がつく日は必ず部屋に来て食事を作ってくれている。その他の家事も彼女が進んでやってくれるために任せきりで、それが自然になってしまっているが、奈央子が決して暇なわけではないのは、持ち帰る仕事の量を見ればわかる。
なぜそこまでしてくれるのか――つまり、どうしてそんなにも自分を好きでいてくれるのか。5年半も付き合っていて今さら何を、と他人には言われそうだが、しかし本気でそう考える時がある。
付き合う前、奈央子の気持ちを知ったのは彼女の親友経由でだった。それ以後も、本人から直接に好きだと言われたことは、実は一度もない。
だからといって、彼女の気持ちを疑うわけではないのだが……いつ突然に心変わりされても不思議ではないという思いは、いつの頃からか心の奥底にくすぶっていて、消えずに存在し続けている。
――もし、本当にそうなったら。
自分はどうするだろう。彼女を忘れて、他の誰かを同じぐらいに想うことができるのだろうか。
奈央子の寝顔を覗きこみ、頬に手を添えた。
この部屋に奈央子が泊まる時、たいていは今夜のように並んで眠るだけである。それ以上のことになるのは、少なくとも自分たちの間ではかなり稀だ。
初めてそうなったのも付き合い始めてから1年以上後のことで、それまでの間、二人きりで旅行して同じ部屋に泊まった時にさえ、まるでそういう雰囲気にならなかった。全く考えが及ばなかったわけではないのだが、彼女と一緒にいるだけで十二分に楽しかったので『まあ、いいか』といつの間にか思ってしまっていたのである。
そして、いまだにその傾向は変わらない。こうして、すぐそばに奈央子の存在を感じているだけで、不思議なほど心が満たされる。たまに衝動があってもほぼキス止まりで、それ以上に関しては、数ヶ月の間が空くことも珍しくない。実際、最近そうなったのは1ヶ月以上前の話だ。
……今の状態が、良くも悪くもぬるま湯であるのは気づいている。いいかげんけじめをつけるべき頃合いであるのも。特に、年が明けて以降は――お互いの24歳の誕生日前後からは、ほぼ毎日考えていることだ。今さら木下に指摘されるまでもなく。
しかし、今のぬるま湯がとても楽で心地よいことも確かだった。どんな形であれ、この状態を変えるには相当の気合いを入れなければならない。それは非常に面倒に感じるし、正直、怖くもあった。あまりにも長く続いてきたから、変化させること自体に少なくない不安を覚えてしまう。
だが当然、いつまでも避けていられる問題ではない。木下が口にしたようなことが起こる可能性は、決してゼロではないと思っている。奈央子を信じられないのではなく、自分自身が信用しきれないからだ。何があっても彼女をつなぎ止めておけるかと聞かれたら、堂々とそうだと言える自信はなかった。
そのくせ、いや、だからこそ、奈央子が離れていく可能性を想像するだけで背筋が寒くなる。失いたくないと、切実に思う。
頬に触れていた手を伸ばすと、彼女の髪がシーツの上に広がっているのがわかる。数年前に一度短く切られた髪は、今では再び、かつてのように腰近くまでの長さになっていた。その髪ごと、柊は奈央子の頭をそっと胸に引き寄せる。
――言わなければいけないと、頭ではよくわかっている。失いたくないのならなおさらだ。なのに、口に出せない。自分の臆病さと優柔不断さに、闇の中でまた小さくため息をついた。