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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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〈1〉



 「なあ、羽村じゃないか?」
 と声をかけられて振り向いた先には、見覚えのある顔があった。大学時代に同じサークルに所属していた、同期の木下である。
 「やっぱりそうか。久しぶりだな、何してんだ?」
 「会社がこの近くなんだよ。そういうおまえは……どこに勤めてたっけ」
 「俺んとこは隣の県だけど、今日はこっちの得意先に用事があって直帰するとこで――な、時間あるならちょっと飲まないか」
 大学を卒業してから3回目の春。
 羽村柊(はむらしゅう)は営業社員として、今いる所からほど近い衣料品のメーカーに勤めていた。今日は仕事が早く終わったので、そのことを電話しておくかと考えながら歩いていたところに、横から木下に呼び止められたのだった。
 しばし携帯を見つめながら迷ったが、卒業以降はめったに会う機会のない相手だし、たまにはいいかと思い、木下の提案にうなずいた。
 最初に目についた居酒屋に入ると、中は満席に見えた。あまり期待せずに店員を待っていると、幸い2人分の空きはあったらしく、奥の席へと案内された。生ビールとつまみを数品注文し、互いの仕事の状況について、愚痴も含めしばらく話し合う。
 その話題が一段落し、会話がいったん途切れたところで、木下が思わせぶりな調子で切り出した。
 「そういや、こないだの飲み会で聞いたんだけど」
 木下が言う飲み会とは、3週間ほど前にサークルのOBOGで集まった時のことだ。柊にも当然連絡はあったのだが、当日は出張が入っていて時間までには戻れそうになく、参加していなかった。
 「なにを?」
 「望月さんが結婚するらしいぞ、7月に」
 その名前に、柊はしばらくジョッキを口に運ぶ手を止めた。
 同じくサークルの仲間で、高校の同窓生でもあり――2年ほどは付き合ってもいた、望月里佳(もちづきりか)。
 別れる時、彼女はほとんど恨み言を言わなかったし、その後も卒業まで、サークル仲間としてはごく普通に接していた。後腐れのない別れ方だったとは思うが、彼女に恋愛感情を持てなかったことを申し訳なく思う気持ちは今でもあったから、里佳のことが話に出ると少なからず複雑な気分になる。
 今も、反射的に手が止まってしまった。木下の言ったことを頭の中で反芻して、ようやく内容を理解し、そして驚いた。
 「……マジで?」
 「おう、本人は来てなかったけど林さんが言ってたからな。間違いないと思うぞ」
 里佳と仲の良かった女子学生(今は当然社会人だろうが)の名前を出して、木下は聞いた限りの詳細を話し始めた。合コンで知り合った相手だそうで、3つ上の27歳。1年ほど前に付き合い始め、数ヶ月後には結婚を考えるまでになっていたらしい。里佳に彼氏ができた、という話は去年誰かが教えてくれた気もするが、その後のことは初めて聞いた。
 「先に惚れたのは相手の方だったらしいけど、何度か会ってるうちに望月さんもその気になったとかって……二次会には同期全員招待するから、会場探し張りきってるって聞いたな」
 「そっか。よかったな」
 「そうだな」
 しばし沈黙と、微妙ながらしみじみとした空気が互いの間に流れた。
 サークルの同期の大半は、柊と里佳の事情をある程度知っていた。自分から言って歩いたわけではなく面と向かって聞かれたこともなかったが、いつの間にか自然に広まってしまっていた。
 まあ二人とも同じ集団に属していたのだから当然ではある。しかし、そこに絡んでくるもう一人の影響も小さくはなかったと思う。当時の学内ではかなりの有名人だったから――と本人に言うと、今でも苦笑いを浮かべつつ否定するのだけど。
 「で、沢辺(さわべ)さんはどうしてんだ?」
 沈黙を先に破る形で木下が尋ねた。聞かれるだろうな、と思っていた矢先だった。
 「あー……まあ、普通に元気にしてる」
 先ほどの話題の後だけに、奈央子(なおこ)に関する話はやや歯切れが悪くなる。里佳に対して残る後ろめたさも作用しているが、それだけが理由ではない。
 「まだ結婚してないのか?」
 柊の左手を一瞥した目とその口調には、いくらかの非難が含まれていた。……そう来るだろうと覚悟してはいたが、いざ言われるとやはり苦い気持ちになる。
 「なにやってんだよ。まさかその気はないって言うんじゃないだろうな、今さら」
 酒の勢いも手伝ってか、木下の語気がいささか荒くなってきた。奈央子と付き合い始める前だが、木下がその頃彼女に惹かれていたことは、直接に聞かされて知っている。この様子だと、未練かどうかはさておき、今も奈央子には特別な思い入れを持っているらしい。
 相手の勢いに少々押されつつも「そんなわけないだろ」と返すと、木下はますます非難がましい目で柊を見た。そして、
 「だったらさっさと結婚しろよ。ぼやぼやしてるうちに他の奴に取られても知らねーぞ」
 決めつけるような調子で言われた台詞に、今度はすぐに言葉を返せなかった。

 翌日の夜。木下を覚えているかと尋ねてみると、奈央子はすぐにうなずいた。
 「確か、あんたと同じサークルだった人よね。昨日会ってたのってその人だったの」
 昨夜居酒屋に入る前に、知り合いと飲むから夕食はいらないと彼女の携帯にメールはしたが(先にかけた電話では留守電になっていたので)、慌てていたので誰なのかまでは書かなかった。今日会ってからも、奈央子は何も聞かなかったので、柊の方から話に出した――あのことを、彼女に報告する義務もあると思ったからだ。
 「でさ、その木下から聞いたんだけど」
 夕食の準備に動き回る奈央子がふきんを持って近づいてきたのを機に、いったん深呼吸をしてから切り出した。
 「結婚するんだって、望月が」
 テーブルを拭く奈央子の手が止まった。顔を上げてこちらを見る。少し驚いた表情のまま何度かまばたきした後、
 「いつ?」
 「7月って言ってた。……だから二次会の案内とかがそろそろ来るかも。サークルの同期は呼ぶらしいから」
 「そうなんだ。……よかった」
 言いながら奈央子は微笑んだ。やっと安心したというふうに。それを見て柊も、同じようにほっとした気持ちになる。彼女の性格からして、里佳のことはずっと気にかけていたに違いなかった。付き合うようになった経緯が経緯だけに、ある意味では、里佳が良い相手に出会うのを一番願っていたのは奈央子かも知れない。
 この機会に、一度聞いておくべきかとも思った。
 「――あのさ」
 と言いかけたのだが、「あ」と声に出したと同時に、奈央子が立ち上がって台所の方へ行きかけた。
 途端に気が挫かれてしまった。奈央子は律儀に気づいて振り返り、「なに?」と尋ねてきたのだが、
 「……あー、いや何でもない」
 言葉を出す気力を再度奮い起こすことができず、そう返さざるを得なかった。「そう?」と首をかしげたものの、さらに問うことはせずに台所へと向かう奈央子の背中を見ながら、柊は気づかれないようにため息をついた。
 彼女といわゆる恋人同士になってから、そろそろ5年半が経とうとしている。もともと幼なじみであるから付き合いそのものは四半世紀に近いわけで、だからつい錯覚を起こしてしまうのだが、5年半という時間も決して短くなどないことはわかっている。


作品名:リスタート 作家名:まつやちかこ