二条城心中
それがいつのことであったか、義輝は良く覚えていない。近江坂本にいたころか、それとも京に戻ってからのことか。将軍職は既に父より譲り受けた後だったから、少なくとも己が十一になった後のことだろう。元服し、将軍の座に就いたと言っても、まだまだ幼い少年であった頃のことだ。
夜中、誰かの声で目が覚めた。女のすすり泣く声だ。どこかで女が泣いている。
それに気付いた義輝は、夜具の中で即座に身構えた。 権力を失い、時には京から逃げ出さざるを得ないほどの困窮を極めていたとは言え、曲がりなりにも将軍の寝所である。断りもなく女が入ってくることなど許されるはずもないし、入れるはずもない。外には寝ずの番の者もいるはずだ。
では、泣いている女はどこから入ってきた?
幼い頃から利発で聡明な少年だった義輝は、その異常さにすぐ気が付いたのだ。
義輝はじっと目を凝らして部屋の隅を見つめた。声はそちらからする。
この世のものではない女かもしれないな、と思った。城には時折、女のあやかしが憑き、あるじとして振舞うのだと言う。それのあやかしが城主を気に入ればその国は栄え、嫌われれば国は傾くのだとも言う。
もしそこで泣いているのがその「城の女あるじ」であるのなら、是非にでも気に入ってもらわねばならんな。義輝はそう思っていた。後に、剣聖塚原卜伝より新当流を、上泉伊勢守信綱より新陰流を学んだ剣豪である。その豪胆さは少年の頃よりであった。
悲壮な想いもあった。あやかしに縋ってでも、衰えた足利家の威光を取り戻さねばならぬ。己一人があやかしに取り殺されて、それで将軍家がかつての力を取り戻すならそれも構わぬ。将軍とはいえ幼い子供に、そんな覚悟をさせねばならぬ時代でもあった。
だが、いずれ暗さに慣れた目が捉えたものは、義輝の期待を裏切るものだった。
確かに部屋の隅には女がいた。ぼうっと光るようにも、透けているようにも見えるから、あやかしであるのにも間違いはあるまい。だが、そこにいたのは「女」ではなく、「女たち」だった。
城の女あるじというなら一人のはずだ。五人も十人もあるじがいる城など聞いたこともない。
義輝は「なんだ、雑多なあやかしか」と落胆し、しかし同時に、このままにもしておけんなと途方に暮れた。あやかしなど恐ろしくも何ともないが、そんなところで泣かれていては寝るに寝られぬ。義輝はしばしどうするかと考えたが、これと言った案は思い付かない。なにしろあやかしなどと遭うのはこれが初めてだ。
ええい、ままよと思った。
「そこで何を泣いておる」
思い切って義輝がそう尋ねてみると、女たちが一斉に顔を上げた。皆、美しい女であった。
「何を泣いている、と聞いている」
女たちは驚いているようだった。自分たちが人に見えるとは思っていなかったのかもしれない。お互いに顔を見合わせ、袖に隠してひそひそと何か言い合っている。
その様子に苛立って、義輝は声を荒げた。
「何を泣いているかと聞いておる! 将軍の寝所にわざわざ化けて出たのだ。俺に何か言いたいことがあるのだろうが、このあやかしめ!」
この豪気さにまた驚いたのだろう。女たちのひそひそ声もすすり泣きも一度に止まり、ややあって、一番年長と思われる女が前に進み出た。
「申し訳御座いませぬ。まさか殿にわたくしたちの声が聞こえるとは思わず……」
そう言って女がひれ伏すと、他の女たちも皆揃って頭を下げた。あやかしに礼を尽くされるというのも妙な気分ではあるが、どうやらこの女たちには言葉も通じるし、話もできるらしい。それは良い。わざわざ坊主だの祈祷師だのを連れてこなくても済む。
「顔を上げよ」
義輝がそう命じると、女は素直に従った。
美しい女だ。先程もそう思ったが、間近で見ると更にそう感じた。恐ろしいほどに美しい女だ。だがその頬には涙の跡があり、泣き腫らした目の端が赤い。それが妙に嫣然と見えて、義輝は息を呑んだ。
その動揺を気取られまいと、義輝は慌てて先程の問いを繰り返した。
「で、お前たちはなぜ人の部屋に集まって泣いている。泣くほど悲しいことがあったのか」
「……はい」
「その理由を言うて見よ」
「お仕えしている殿のことでございます」
「お前たちの主のことならば、そやつに直接訴えればよかろう。なぜ俺のところに来た」
女は、それには答えなかった。
「我が殿は、わたくしたちを可愛がってはくださらないのです」
「可愛がる、だと?」
義輝は改めて、女の姿を見た。
高価そうな着物を着ている。肌は滑らかで、時折涙を拭う指先にもささくれひとつない。水仕事ひとつしたことのない女の手だ。長い髪は丹念に梳られ、つややかに伸びている。可愛がられていないどころか、珠のように大事に、丁寧に扱われている女の姿だ。
「贅沢を申すな」
「いいえ、いいえ」
だが女は激しく首を振って否定する。
「確かに我が殿は、わたくしたちを大事にしてくださいます。美しい着物を誂え、外にも出さず、見る度に美しいものじゃ、良いものじゃとお褒めくださいます」
「それの何が不服と申すか! 幸せな暮らしではないか!」
義輝は激高した。京と近江の間を逃げ惑い続けている母などは、高価な着物も美しい簪も全て失ってしまった。将軍の生母とも思えぬ質素な着物の袖から覗く、荒れた手を見るのがいつも悲しい。本来ならばそんな暮らしをするひとではなかったはずなのに。
母ひとり、女ひとり守れぬ将軍。その情けなさが辛かった。
それに比べれば、この女たちは恵まれている。高価な着物。傷ひとつない指先。何不自由ない暮らしだ。それの何が不服か。何が不幸か。
「……しかし、それだけなので御座います」
女の声は、搾り出すようだった。
「殿はわたくしに触れてもくださいませぬ」
「なん、だと?」
「閨に呼んでもくださいませぬ」
閨。そう聞いた途端、義輝の顔は首まで真っ赤になった。元服を済ませ、近いうちに近衛家の娘を娶ることにはなっているとは言っても、義輝はまだ幼いのだ。男女の間にそういうものがあり、そういうものがあって子ができるのだということは聞かされてはいるが、若く美しい女からこうも赤裸々に語られるのは初めてだった。
天女のようなこの女にも、そういう欲があるのかと義輝は驚き、同時に赤面した。少年らしい、うぶな反応であった。
「蝶よ花よと褒めそやされて、でもそれだけなので御座いますよ」
「そ、それのどこが悪いッ!」
「わたくしたちの美しさだけを求められるのなら、確かにそれで良いでしょう。夜伽の務めも果たさず、子も産まぬのなら、この身は確かに衰えませぬ。わたくしたちの姿は美しいまま、このままいつまでも美しく残りましょう」
女は身を絞るように、ぎゅうと己の肩を抱いた。
「しかし、わたくしたちにはそれが幸せなこととは思えないので御座います」
「大事にされ、いつまでも美しくあれると言うなら、それは幸せなことではないのか!? なぜ不幸だなどと思う!」
「それは――」
僅かな沈黙の間、女は俯き、それから低い声で答えた。
「それは……わたくしたちが、女だからでございます」
「おん……な……だから、だと……?」