二条城心中
さて、どれにしようか。そう思うと自然、口元が綻んだ。おかしなものだ。義輝が今まさに選ぼうとしているのは、己の自害の為の刀だ。己の命を断つ刀を選ぶのに、笑う阿呆がいるものか。
しかし家臣たちには、それが義輝の豪胆さに見えたようだった。流石は殿、と誰かが言い落としたのをきっかけに、低いざわめきとすすり泣きの声が部屋を埋め尽くした。足利家十三代将軍であり、剣聖と並び称される塚原卜伝と上泉伊勢守信綱から剣を学んだ男が、己の死を前にして笑うのだ。真の剛毅とはこういうものかと、家臣が深く感じ入るのも無理はないだろう。
違う。そうではない。義輝は微笑を浮かべたまま、胸の奥だけでそれに否と言う。口に出すことはない。
四方を逆賊・松永久秀らの軍勢に取り囲まれ、二条城は今や陥落寸前だ。己の死はとうに覚悟し、近習の者には既に、早く逃げよと伝えてある。命を無駄にすることはない。それでもここに残っているのは、冥府まで主君に従おうという忠臣たちだけだ。その忠義を裏切るような言葉は、間違っても口にするものではない。
だが胸の奥で、義輝は否と言う。俺はそのような豪傑でも立派な将軍でもない。ただの阿呆だ。阿呆も阿呆、大阿呆だ。
どうしようもなく傾いた足利将軍家を、己の力で何とか立て直せるものだと信じていた。十一歳で父の後を継いで将軍職に就いて以来、その為ならば何でもした。将軍家のことなど忘れかけていた大名どもに頭を下げることも、己の名の一字を与えることも厭わなかった。
その一方で、武士の頂点たるもの強い男であらねばならぬと、二人の剣聖に教えを請いもした。いやしくも将軍と呼ばれる男が、木刀に打たれ、泥にまみれて必死に剣を学んだ。その程度で幕府の威光が取り戻せるはずもない、と心のどこかで分かっていながらだ。
阿呆であったな、と義輝は自分の生涯を笑う。幕府の権力を取り戻すため、将軍の威光を取り戻すためと必死になった結果がこれだ。傀儡の将軍を擁し、政権を我が物にしようとする者たちに疎まれた挙句、ついにはこうして攻め殺されようとしている。征夷大将軍ともあろうものが、家臣に討たれるのだ。義輝の死は足利家の没落の象徴となり、幕府の権力は今度こそ地に堕ちるだろう。
何も残らなかった。何も残せなかった。足利義輝という男の人生は、全く無為なものであったのだ。
本当に阿呆な人生よ、と笑うよりなかった。
だが、まだ何もかもを失ったわけでもなかった。義輝の目前には、古今東西の名刀がずらりと並べられている。剣の好きな義輝が自ら集めたものや、献上されてきたものだ。
俺にはまだこれがある。義輝は己の最後の財産を見つめて思った。どの刀に己の命をくれてやろうか、と考えながらだ。
好きな刀を選んで死ぬことができる。それだけでも贅沢な死に様ではないか。その想いも義輝を笑わせた。
ああ、やはり俺は阿呆だったのだと義輝は思う。いくら刀が好きでも、自分を殺す一刀を選ぶのが愉しいというのは阿呆の思うことだろう。理性はそう思う。だがそれでも口元は緩み、心が弾む。なんという刀好み、なんという大阿呆だろうか。
だが結局のところ、義輝には刀しかなかったのだ。足利家に望んで生まれたわけでも、好きで将軍になったわけでもない。剣を学んだのは己の意思だが、それとて将軍に相応しい武勇を立てんとした為だ。
なんの気負いも義務感もなく、ただ心の底から「好きだ」と思って集めたのが刀だった。刀身に鈍く映る影だけが、義輝という男の本心だったのだ。
「このようなことになるのなら、大般若長光も手元に残してやれば良かったの」
義輝は、家臣の忠義を褒めて下賜してしまった太刀のことを思った。華やかな刃文が美しい太刀だった。あれに首を撥ねられる。そんな幻想を、義輝は一時思い描いた。悪くない、と思えた。
しかし、もう手元にないものは仕方がない。
義輝は残る名刀を並べて腕を組む。童子切安綱がある。鬼丸国綱がある。大典太がある。二つ銘則宗も、骨喰吉光もある。いずれも天下に名高い名刀ばかりだ。将軍義輝の血を吸ったとあれば、さらにその名は高まり、後世まで大切に扱われるに違いない。
さて、その幸運をどやつにくれてやろうか。そう思いながら、一振りの刀を手に取った時のことだった。
「約束で御座いますよ」
不意に、女の声がした。いや、女の声を聞いた気がして、義輝はあたりを見渡した。
そんなはずはない。女たちなどとうに逃がしてやっている。母の慶寿院だけは、息子と運命を共にせんと残っているが、先程の聞いた声はもっと若い。
では、あれは誰の声か。
空耳だとは思わなかった。聞き覚えのある声だ。
「約束で御座いますよ」
「どうか守ってくださいませ」
「どうか忘れずにいてくださいませ」
あれは。あの声は。
だが声は、それきり聞こえなかった。聞こえるのはただ、家臣たちのすすり泣く声と、攻め手の怒声だけだ。戸を打ち壊す音や塀が崩れる音、誰かが火を放ったのだろう、炎が風を巻いてごうごうと鳴る音がそれに重なっていた。何かが爆ぜるような音は鉄砲か。
松永軍はもう目と鼻の先だ。味方勢にはもう、それを押し返す力はない。ほんの僅かでも良いからその勢いを押し止め、義輝に穏やかな最期、立派な自害を遂げさせる時間を稼ごうとしているだけだ。
そのためだけに、多くの忠臣が敵の真っ只中に踊り込み、己の屍で塁を築こうとするかのように倒れていく。阿鼻叫喚とはまさにこのような光景を言うのかもしれない。
その中で、義輝は一時、遠い昔に想いを馳せた。
「約束で御座いますよ」
あの声を聞いたのは、一体いつであったかと。