緑衣抄
理一郎ははげちょろけたステッキを振り回しながら伯父の屋敷につくと、その夜さっそく伯父に司法試験に挑戦してみたいと訴えた。伯父はそれを許可した。 鉄は熱いうちに打てとばかり、あくる日から理一郎は法律の勉強を始めた。伯父にせびった小遣いで丸善へ行き、教科書を買い求め、釣り銭が余ったので精養軒で飯を食った。しかし家に帰って金箔押しの六法全書を女中や下男に見せびらかした後、部屋へ戻って本を開いてみて彼ははじめて己の考えがいかに甘かったかを痛感した。当たり前である。弁護士というものは帝国大学の法科を銀時計とまではいかないまでも優だの良だので卒業した学生がなるものと相場が決まっている。理一郎の出は元私塾のひょろひょろ大学であった。しかも文科であった。そして中退であった。理一郎が難渋したのはあまりにも当然のことである。 しかし理一郎はめげなかった。一つにはあまりに早く投げだしては体裁がつかぬという理由があり、二つには伯父の目を恐れていたという理由があった。彼はひねもす机に向かっては、分りもせぬ六法全書と飽かず睨めっくらをした。机は西に向いた窓際に置いてある。書生部屋といっても存外に広く、昼を過ぎると日差しはようよう暑くなり、六法全書の上に白いノオトブックを作り出す。光はここを勉学しろというのである。だが書いてあることが理一郎には理解ができぬ。できぬから次第に眠くなる。腹がすく。そうなると食欲と性欲の区別がつかなくなってきて、昨日見た映画の女優のうなじやら、女中の尻やらが瞼に浮かぶ。旨そうだなと思う。昨日の鯖の味噌煮はちいと味が濃すぎた、などと思う。こうした煩悩とうつらうつらを繰り返すうちに、一日が終わる。それが数日、一週間、二か月続いた。ぼんくらはぼんくらなりに怠けることには根気を発揮するのである。
二ヶ月経ったある日、その日も理一郎は漫然と六法全書の前に座っていた。理一郎の部屋は屋敷の裏に面している。庭は狭い。理一郎の部屋から二つほど部屋を越した先、角を曲がってから急に庭が広くなるのである。庭の向こうは当たり前の隣家である。金物屋の婆さんがそこに住んでいたが、去年死んでから空き家になっていたのを数週間前ほどから女が住み始めた。その女がちょくちょく隣家の庭に出てくる。花に柄杓で水をやったり、夕暮れに涼んだりしているのを日がな一日窓の外を眺めてぼんやりと物思いに耽っているばかりの理一郎は眼福とばかり眺めている。女のほうでも見られているのを知っていて、わざとやっているようにも思える。遠目にもいい女である。このごろ大流行で街を闊歩するバタ臭いモガではない。島田に結った下に切れ長の目が光っている。それが今日はひょいひょいと塀の向こうを歩いて行き、ふっと消える。そのひょいひょい、ふっを理一郎はうっとりと見詰めている。その軽やかさは蝶か蜂か、何か艶やかな昆虫のようだ。彼は昆虫だとか甲虫だとかの類が大好きだった。子供のころ、虫を追っては迷子になって泣きわめいたものだったが、それすらも彼の心に今は安穏とした思い出となって残っていた。
「あら、お勉強熱心なのね」
突然聞こえてきた声にどきりとして辺りを見回すと、先程ふっと消えたはずの女が目の前にいて、理一郎はさらにどきりとした。年の割には地味な、緑色した棒縞の着物を着ている。島田髷がこちらを向いてにっこりと笑った。
「はかどります?」
「いやぁ、こんな美人に見られては、頭に入るものも入りませんな」
ぼんくらほど場の空気が読めないというか、時に大胆なところを見せるものである。人はそれを時々勇気という。
「あら、それなら、私お暇しましょ」
「いえいえ、丁度休憩しようと思っておったとこです」
理一郎がそういうと、女はまた莞爾として図々しくも縁側から部屋に上がり込んできた。「難しい本を読んでいらっしゃるのね」女は景子と名乗った。
「ええ法律の本です」
「ああ、細かい字、わたし目が痛くなりそう」
「ははは、この程度で目が痛いとは近視の可能性がありますね」
「いやだ、わたくし目は良くてよ」
「ほう」
「遠くの方がよく見えて、近くはすこうしあやふやなのは確かですけれど」
「おや、それでは普段は何をなさっていらっしゃるんです、近視ではお裁縫は難しいでしょう」
こんな美しい女が一人で暮らしているというのだから、さだめしそこには悲しい理由がなくてはならないと、かつて勉学そっちのけで冒険小説に耽溺した過去を持つ理一郎は考えていた。病気の親のために嫁ぐことを諦めて資産家の妾になったとか、或いは裕福な家の未亡人が何かの都合で家にいられなくなったとか。結婚して誰かの妻になっているというのは考えにくかった。なぜならば、理一郎は今まで一度も、隣家に入る男の影を見たことがなかったのである。しかし女は静かに首を振って拒絶の意を示すと、「私が明屋さんを取って食うように見えますの?」と逆に聞き返した。
「いいえ」
「だったら、私が何者でも関係のないことですわ。大事なのは地位だの経歴だのではなくて、今こうしてお話しているということでなくて?」
それはいかにも奇妙な理論であったし、はぐらかされると余計に野次馬根性が出てきもしたが、理一郎は同時に世界中の女性に対して常に優しくありたいと考えるロマンチストでもあったので、女の台詞に対して尤もらしく頷いてやりながら「そうでしょうそうでしょう」と言った。なるほど陰がある方が女は美しく見えたので、理一郎は二度と彼女の素性を糾問することはしなかった。景子はしばらく歓談したのち、来た時と同じように気まぐれに「そろそろ帰らなければなりませんわ」と言い出した。
「一人暮らしでしょう、何もそんなに急がなくとも」
「まあ嫌だ、一緒にいるところを見られたら何と噂されるか分かりませんのに」
「されたって好いじゃあありませんか」
それは一種の賭けだった。いいえと答えれば、景子には男がいるのである。果たして、彼女は口元を引き上げ目元を細め、持ち前の笑みを浮かべた。「されたらされたで覚悟はできていますけれど、程度というものがありますわ」理一郎は何も言い返すことができなかった。景子は育ちの良いことを伺わせる柔らかなしぐさで立ち上がると、ではまた、と自分の家の方へ出て行き、角を曲がって消えた。