少年と少女の記憶
俺に気付くと、ガイジン女は不躾にそう訊いた。ぴっぴっと手についた水を払って、スカートの裾で拭く。
「・・・みたいなもん」
「そう。それにしても、食器ためすぎ」
ふん、と鼻を鳴らす。シンクに山積みになっていた食器は、乾燥機にすべて納まっていた。
「あたし、もう帰んなきゃ」
ダイニングに置いてあったダッフルコートを着込むと、ガイジン女はさっさと玄関に向かう。
「おじゃましましたー」
「おい」
ドアを少し開いたところで、ガイジン女は動きを止めた。俺を見て、不思議そうな顔をする。
外から、冷たい風が入ってきた。
「あ、ありがと」
オレがそう言うと、ガイジン女は、教会で見せたのと同じように、にいっと笑って、
「どういたしまして」
と言った。
ドアが、バタンと閉まった。吹き込んだ冷たい風が足元を冷やして、オレは身震いした。
ぴーっという音が聞こえた。食器乾燥機の音だ。オレは廊下を戻って、台所に入った。乾燥機のスイッチをオフにし、食器を片す。と、出した事も無い土鍋が、コンロの上に乗っていた。
そっと開けると、中はおかゆだった。まだ温かい。
片付けようと持っていた食器をいったん置いて、オレはおかゆをダイニングテーブルに運んだ。
ずっと使っていなかった蓮華(れんげ)を取り出す。
一口分掬うと、蓮華からも湯気が立った。ふぅふぅと冷ましてから、口に運ぶ。
普通に、おかゆだった。しかし、現代の女子高生でまともにおかゆを作れる奴が何人いるだろうか。
「・・・リーゼロッテ」
本当に、変な女(やつ)。
月曜日、学校に行くと、リーゼロッテはもう既に教室にいた。オレが登校するのはホームルームの直前だから、当たり前と言えば当たり前だが。
すっかり打ち解けたらしい女子たちと楽しそうにお喋りしていたリーゼロッテは、俺を見つけると、にいっと笑って手を振ってきた。手を振り返してから、オレは席に着いた。
女子の集団のざわめきが、一気に大きくなる。噂の美人転入生と凶悪不良学生の関係やいかに、ってトコか。
どうでも、いいけど。
オレはとっとと寝る姿勢に入った。
「倉田!」
普段は無視するのだが。オレは呼びかけに答えて、ゆっくりと顔を上げた。やっぱり、リーゼロッテだ。
「もう平気なの?」
「・・・まぁな」
「そう、よかった」
淡々と言うと、また女子の集団に戻っていく。女子の声はもっと大きくなった。昨日、オレはおかゆを食べた後、いつもそんな事は無いのに、急激な眠気に襲われて、たぶん夢も見ずに、ぐっすりと眠った。
日曜日目が覚めると、体が今までに無いほど軽くて驚いた。そして、同様に今朝も。いくら眠っても、すっきり目覚める事はできなかったというのに。
今、目を閉じても眠くならないのは、そのせいだろうか。結局、机にもたれ掛かっていた上半身を起こして、ぼんやりと外を眺めた。
「ホームルームを始めるぞー、席につけー」
ややあって、担任が入ってきた。起きているオレを見て、面食らった顔をする。
「ご、号令」
起立、礼。お決まりの文句で、ホームルームが始まった。
オレは起立もしたし、礼もした。男子も女子も、何事かとこっちを見る。それすら、今のオレにはどうでもよかった。
窓越しに見上げた空はやっぱり晴れていたが、遠くに、薄黒い雲が見えた。
結局、今日は学校で一睡もしなかった。
授業をちゃんと受けたわけではないものの、高校生になってから初めてのことだった。
昨日買ったマンガ三冊と本二冊が入っているせいで重い鞄を背負った。リーゼロッテは掃除当番らしい。
途中自動販売機でコーラを二缶買って、オレは教会に到着した。ドアを開くと、いつもと変わらない埃とカビの臭いがする。
少し悩んで、コーラの缶をよく冷える窓際においてから、例のソファでマンガを読み始めた。人気シリーズの最新刊だ。
「はは」
小さな笑い声でも、天井の高い教会にはよく響く。なんだか、寂しかった。
唐突に、ドアが開く。
「どーもー」
入ってきたのは、リーゼロッテだった。
「・・・おう」
マンガから目線をあげて、軽い会釈をする。
「あ、それ最新刊?」
オレの手元を指差して、リーゼロッテは言った。
「あぁ。読むか?」
「え、いいの?」
リーゼロッテは驚いたように目をぱちくりさせた。
「おう」
「ありがとー」
リーゼロッテは少年誌が好きらしい。嬉しそうに読み始めた。オレは窓際に行き、コーラを手に取った。買ったときより冷えている気がする。オレもリーゼロッテも、マフラーとコートを脱がずにいる。それぐらい、ここは寒いのだ。
「はい、コーラ」
「さんきゅ」
受け取ってから、リーゼロッテは首を傾げた。じっと、オレを見る。
「・・・なんだよ?」
「なんの、つもり?」
エメラルドグリーンの瞳が、悪戯っぽく煌めいている。近くで見ると分るが、長いまつげは髪と同じ亜麻色だった。
何のつもりかと訊かれても。
考えてみると、何故だろう?
「おかゆ」
とっさに口から出たのは、その単語だった。
「の、お礼?」
後を引き継いだのはリーゼロッテだった。ニヤニヤと言う感じの笑みを浮べて、
「一昨日の、みっともないからって、口止めとか?」
「そんなんじゃねえよ」
即答した。そんなつもりは、ない。
「ふーん?ま、言わないけど」
つまらなそうにそう言うと、リーゼロッテは缶のプルタブを起こした。ぷしゅっ、と、炭酸の抜ける音が天上まで響く。
「音、響くねー」
言ってから、ぐびぐびとコーラを飲んで、けぷっと小さくげっぷをした。顔に似合わず、下品だ。続いて俺もコーラを空ける。炭酸はあまり得意ではないので、少しずつ飲み下す。
天井を見上げると、無数の蜘蛛の巣に埃が積もっていた。
「・・・なぁ」
リーゼロッテに声をかける。
「なーにー」
「お前さ、特別仲いい男子とかいないよな?」
そーだねー、と、リーゼロッテはうわの空で返事した。
「何で、オレ・・・」
意味もなく、言葉に詰まった。
「オレと仲良くするのかって?」
リーゼロッテが顔を上げる。前に教会で見た、あの目だった。
「そうだな・・・似てるから、かな」
窓からぽつっと音がして、雨が降ってきたのだと分った。どんどん、強くなる。
「あんたの、目。私とそっくりなんだ」
雨の音が、強くなる。マンガをソファに置くと、リーゼロッテはオレの傍に来た。
揺れる髪から、なんとも言えない良い匂いがする。
「うん。あんたになら、話してもいいや」
オレの目を見据える。
「あたしね、母親を殺したの」
窓の外を、遠い目で眺める。
リーゼロッテが語るに。
彼女は、その時五歳だった。
彼女の母は長い事患っていて、集中治療が受けやすい日本にやってきた。
「自分で言うのもなんだけど、あたしの家、結構金持ちなんだ」
飲み終わった缶をいじりながら、リーゼロッテは言った。
「お父さんは、お母さん以外に好きな人がいたの。しかもその人、妊娠してたのよ」