少年と少女の記憶
やっぱり怒っているわけじゃなく、哀しんでるわけでもない。リーゼロッテはただ淡々と、事実を語っていた。
彼女の母は、既に末期だった。
延命治療は苦痛でしかなかったのだろう、彼女の母は一ヶ月もたつと、娘の顔さえ分らなくなっていた。
痛いと。
苦しいと。
殺してくれ、とさえ。
「だからあたし、延命装置のスイッチを・・・」
背伸びをして、切った。
見る見るうちに、母は、絶命した。
「天国なんて無いんだよ」
そう言うと、リーゼロッテは窓からオレに目を移した。だけど、その目はオレを見ているようで・・・見ていなかった。今の彼女には、なにも見えていないのかもしれない。
しかし、
「天国、なんて」
冷たさの奥にある痛みが、一瞬だけど、オレには見えた気がした。
ベッドに入ったのは、十一時を回った頃だった。目を閉じると、リーゼロッテの瞳が浮ぶ。
『天国なんて無いんだよ』
今更、理解できた。彼女は自分を責めているんだろう。ずっとずっと昔から、自分でも気付かないうちに。
その、次の瞬間だった。
キイィィィイイィン!
唐突に、頭が割れるような衝撃が走った。
「あああっあぁあぁぁぁ!!」
思わず、絶叫する。
蘇る、蘇る。ものすごい勢いで、テープが再生される。
この目は開いているのだろうか。それとも見えなくなっただけなのだろうか。
記憶の逆流。オレの目は、過去に移したものを再びオレに見せた。
オレが五歳の時。母さんが事故にあった。
父さんの運転する車に乗って、大慌てでお見舞いに行ったんだ。
オレ達が着いたとき、母さんの意識はもう回復していて。よかったと安堵するオレ達を見て、こう言った。
「あなたたち、だぁれ?」
記憶喪失。体の傷がすべて回復しきっても、記憶が戻る事は無かった。父さんが説得したんだろうか、母さんが出て行くことは無かった。今まで通り、オレと接してくれた。
だけど、違った。
オレの知っている母さんは、もういなかった。
「もういやだ!」
ある日、僕は嫌になった。僕を『一宏』と呼ぶお母さんが。『かーくん』と呼ばないお母さんが。お母さんでない、お母さんが。
家を飛び出した僕を追って、お母さんは。
車に、撥ねられて。
慌てて駆け寄った僕に、言ったんだ。
「かー、くん」
僕の頬を撫でて。
優しく微笑んで。
死んだ。優しい微笑(びしょう)を顔に遺して。
「僕の、せいで」
言葉が、自然と口からこぼれた。
こんな事を。こんな大事な事を、忘れていた。
そうだ、あの女の声は。
「お母さん・・・!」
お母さんの、精一杯の愛だった。産んだ事も覚えてない息子への、愛だったのだ。
「ごめんなさい」
頬に熱い粒が伝う。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
雨音が、いやにはっきりと聞こえた。
何時の間に眠ってしまったらしい。
目覚ましのデジタル時計を見ると、十時をまわっていた。のそりと起き上がり、ベッドを降りる。
顔はひどい事になっているに違いない。でも、そんな事かまわなかった。
物置になっている部屋に入った。なんとも表現しがたい、饐(す)えた臭いがする。その奥に、古びた段ボール箱が見えた。
開けたところまで引きずってきて、そのダンボールの中身を広げる。
母さんの遺品だ。
質素なデザインのアクセサリーがいくつかと、ブラシに櫛、あと、日記帳が入っていた。
ハードカバーの日記帳を開くと、封筒が、はらりと落ちた。
真っ白な、封筒。封はされてない。裏返すと、
『かーくんへ』
と、少し丸めの字で書かれていた。
見覚えのある、母さんの字だ。母さんから、オレへの手紙。
心臓が早くなる。
中には、便箋が一枚入っていた。
文章は、封筒と同じ字で、『かーくんへ』で始まっていた。
『あなたがこれを読んでいるという事は、私は死んでしまっているのでしょうね。長生きしたかったけど、できなかったみたい。しょうがないんでしょうけれど、かーくんがお嫁さんもらうまで生きていたかったな。私はどんな死に方をしたのかな。かーくんを傷付けていないかな。それだけが、心配です。私は別に、あなたが生きて、笑って、楽しく生きているのなら、それでいいの。間違っても私のせいで自分を責めたり、悩んだり、泣いたりして欲しくないの。もういない私のことを思っても、何にもならないのよ。私は、死んでもあなたの事を愛しています。それだけを忘れないで、強く生きてください。
母より』
「これが、あんたのお母さんの遺書?」
「あぁ」
手紙を見つけてから数時間後、オレとリーゼロッテは教会にいた。
「・・・いい、お母さんだね」
そう言ったリーゼロッテの顔が泣きそうにゆがんだのを、オレは見逃さなかった。華奢な体を、抱きしめる。
「え、ちょっ」
「もう、いい」
抱きしめる手に、力を込める。
「もう、自分を責めなくて、いい」
リーゼロッテの体から、力が抜ける。それを見計らって、オレは肩に手を添えて体を離した。
「天国なんて無いなんて、言わないでくれよ。そしたらオレの母さんは、どこに行けばいいんだ?」
覗きこんだ明るい緑の瞳から、涙が溢れる。
「お前の母さんも、天国からお前を見守ってる。絶対、そうに決まってる」
だから。
「少なくとも、オレはお前が好きだよ。一生、お前の傍にいてやるから」
もう一度、抱きしめる。分ってくれるまで、何度だって。今度は、リーゼロッテもオレを抱き返した。細い腕が、オレの腰を締める。
リーゼロッテは、オレの胸に顔をうずめて、
声を上げて、泣いた。
fin