少年と少女の記憶
「あたしの名前はリーゼロッテよ。ガイジン女はやめて」
そう言うと、ひらりと出て行った。ドアが閉まる振動で、ひびの入った窓がガタガタと鳴る。それが治まると、朽ちかけた教会に再び静寂が下りた。ため息を深く吐いて、オレは乱暴にソファに沈む。軽い頭痛がした。
そして、なぜか寂しいと思う自分がいた。
胸が、苦しい。息ができない。
枕元に立っているのは、見覚えの無い女の人だ。
『一宏』
空っぽな頭の中に、声がこだまする。
『あんたのせいよ』
うわんうわん。輪を描くように、ぐるぐる、ぐるぐる。
『あんたのせいで、私』
「ごめんなさい」
空っぽの頭には声が響くだけ。口が勝手に動いて、そう言った。
「ごめんなさい」
誰に対しての謝罪なんだろう。何も分らない。考える事もできない。
オレは、
僕は、
いったい、ナニモノ?
穏やかな目覚めだった。
ただいつものように見た夢の内容は思い出せないし、頭はすっきりしなかった。広い自室は、がらんとしている。
父さんと二人暮しの家は、二人暮しには広すぎる。
おまけに、父さんはほとんど家に居ない。今でも単身赴任中だ。
父さんの仕事の事はあまり知らない。興味も無い。大体話す事もあまり無いのだから、知ろうとしても無理だったと思う。
黒い厚手の遮光カーテンを引くと、真っ暗な部屋は一瞬で光に満たされた。壁にかけてある時計を見ると、もう九時をまわっていた。
今日は土曜日だ。何もすることがない。
少し考えて、決めた。今日は本屋に行く。マンガか本を好きなだけ買って、あの教会に行こう。
洗面所で顔を洗った。頭を洗面台に無理やり差し出して、髪をぬらす。髪をタオルで拭きながら、歯磨きをした。
タオルドライ仕立ての髪はまだ湿っていたので、ドライヤーで一気に乾かす。夏ごろから伸ばしっぱなしの髪は、乾かすのに時間がかかる。
愛用しているジーンズを穿いて、長袖Tシャツ、トレーナー、ダウンジャケットを順に身に着けて、マフラーを巻く。冬休みが明けて、寒さは本格化してきていた。
財布と携帯を鞄に放り込んで家を出た。外からしっかりと施錠して、鍵も同様に放り込む。
風が強かったので、ゆるく巻きつけただけのマフラーを巻きなおし、後ろで結いつけた。
やっぱり、寒い。息が白く染まる。
だけど、家でのんびり、という選択肢は頭に無かった。
オレの家はマンションの二十階にあるので、外に出るときはエレベーターだ。
スイッチを押して、エレベーターが下りてくるのを待つ。
チーン、と音が響いて、鏡張りの個室が到着した。ポケットに手を突っ込んだまま、そっと乗り込む。
鏡には、普通にオレの顔が映っている。いつもと変わらない、オレの顔だ。
『あたしから見たらあんただってガイジンよ』
そう言った時の、リーゼロッテの目。どこかで見たと思ったら、そうか。
似てるんだ、自分に。
チーン。再び音が響いて、ドアが開いた。
出口がある一階にはエントランスがあり、全体が室内になっている。外に出るためにはエントランスを通るのだが、そこは主婦の溜まり場になっていて、いつもある程度ざわついている。嫌いな場所だ。
俺がエントランスに入ると、喧騒が少し小さくなった。
奥さんが、とか、単身赴任で、とか、ぶつぶつ言っているのが聞こえる。うんざりだ。
暇な主婦たちにとって、俺みたいなのは格好の話のネタらしい。ここに住んでいる学生は、ほとんどこもりきって勉強しているのだろう。ようは、珍しいのだ。
極めつけは、三ヶ月前の出来事だろう。
俺がよく行く本屋の前で、不良が五、六人たむろしていた。受験生をからかおうという魂胆だったらしい。
そいつらが選んだ相手が、不幸極まり無い事に、オレだったのだ。オレがシカトしようとしたのがまずかった。殴りかかってきたやつのみぞおちに拳を叩き込み、結局逆切れしてきた不良たち全員を畳んでしまった。喧嘩に強いつもりは無かったが、生まれつき高い身長は予想外にリーチを与えてくれていた。
何でもそいつらは結構幅を利かせてたグループだったらしくて、噂はあっという間に広がった。おかげで、品揃えがすばらしくて気に入っていたその本屋にも行けなくなり、もともと孤立していた学校では人っ子一人寄り付きやしない。
面倒くさい。不思議と、寂しいとか、ムカツクとか、そんなのは無かった。ただ、すごく面倒くさい。それだけだった。
外に出ると、空はよく晴れていた。雲の無い、すこし疎らな、薄い青。冬は、晴れた日のほうが寒い。太陽以外何も無い空は、どこか寂しかった。
最近舗装があったばかりの歩道を、ゆっくりと歩いた。
『一宏』
キィン、と、耳鳴りがした。頭に、衝撃のような重い痛みが襲う。よろめいて、思わず電柱に寄りかかった。
『一宏』
うわん、うわん。それでも耐え切れず、しゃがみこむ。景色がゆがむ。目をぎゅっと瞑った。頭が、割れる。やめてくれ。
『ごめんね』
聞き覚えのある声が、でも、どこで聞いたのか思い出せない声が、オレを苛む。女の人。綺麗な声。・・・それ、だけ。何も分らない。何も知らない。何も憶えて、ない。
お前は、誰だ?
どれくらい経っただろうか。
「・・・!・・た!!・・・・倉田!」
声が聞こえた。あの声とは、違う声だ。この声は・・・
「ガ、イ・・・ジン、女?」
何とか目を開けると、そこには心配そうにオレの顔を覗き込むガイジン女が
いた。
「リーゼロッテよ!それより、どうしたのよ?」
まだ痛むものの、少し軽くなった頭痛の中、オレは何とか立ち上がった。
「なんでも、ない」
「なんでもなくないでしょ、あきらかに!」
ガイジン女が言うには、本屋に向かおうと歩いていたら偶然俺を発見し、声をかけようとしたいきなりよろめいてしゃがみこんだという事らしい。
「家、近くなの?」
「あ、あぁ」
オレが答えると、ガイジン女はオレの腕を肩に乗せて、オレの体を支えた。
「おい!」
「行くわよ」
「余計なお世話だよっ、っつ」
目の奥が、キィンと痛んだ。不本意ながら、オレはガイジン女にもたれかかる。
「ほら、ダメじゃん」
「っく」
足がふらふらする。残念ながら、一人で歩くのは無理そうだ。
「で、どこ?」
家の事を聞いているんだろう。喋るのもきついので、数十メートル先のマンションを指差した。
「あそこね」
飛びそうになる意識を何とか押しとめながら、俺たちは歩き始めた。
水の流れる音が聞こえる。台所の蛇口の音だ。
それに混じって、かちゃかちゃと食器を扱う音がする。
オレは、ゆっくりと目を開けた。頭の痛みはひいている。眼の焦点をあわせるのに、少し時間がかかった。ここは、オレの部屋だ。
そうだ、何とか玄関前まで来たところで意識が飛んで・・・。
ゆっくりと立ち上がって、足の感覚を確かめる。両足は、しっかりという事を聞いてくれた。部屋を出て台所に行くと、ガイジン女が食器を洗っていた。
「あんた、一人暮らし?」