少年と少女の記憶
足がふわふわする。
ぼんやりと分った。これは夢の中だ。
ランドセルを背負った小さなオレは、家に向かって駆けている。色の無い世界で、ふわふわと失踪している。吐いた息は白く、無造作に巻きつけたマフラーが、ひらひらとなびいた。
そうしてオレは、小さなアパートにたどり着く。オレの家は、二階建てのアパートの粗末な階段を駆け上り、すぐ目の前の部屋だ。
「ただいまー!」
オレは元気よく、そのドアを開けた。1LDKの小さな部屋には、十分すぎるほどの声だ。
小さく足音をたてて、お母さんが出てきた。マジックテープのスニーカーをぬぎ散らかしたまま、お母さんの顔を見上げる。
「お帰りなさい」
お母さんの手が、僕の頭を撫でた。
何でだろう。逆光なのか、それともオレの背が低いのか。お母さんの顔が、ぼやけて見えない。
・・・いや。それよりも、この手だ。部屋が寒かったのだろうか。とても、冷たい。
『本当に、おかあさんなの?』と訊こうとした口は、中途半端に開いたまま止まった。
何でか分らないけれど・・・とても、とても怖かった。
冷たい事以外には、まったくお母さんと変わらない手の感触が。ぼやけた顔が。
――――ひどく、恐ろしかったのだ。
夢の終わりは唐突に訪れた。いきなり上がった大きなざわめきのせいだ。じっとりと掻いた寝汗が、すごく気持ち悪い。どんな夢だったっけ。嫌な夢だった事には、間違いは無いんだが。
「転入生のフォン・ヒンデンブルクだ。自己紹介を頼んでいいかい?」
「はい」
ワンテンポ遅れて、オレは目を見張った。黒板の前に、黒いセーラー服を着たガイジンが立っていた。
何人(なにじん)だろうか。二重瞼の目は、エメラルドグリーンの瞳を称えている。テレフォンショッピングで見るような宝石とは輝きの格が違う、吸い込まれそうな瞳だった。
髪は亜麻色で、毛先がゆるゆると巻いている。
真っ白な肌に、薔薇の花びらのような唇。つんと上向きの鼻梁。文句の付けようがない美少女だった。
「フォン・ヒンデンブルクって言うのは名字で、名前はリーゼロッテといいます。ええっと」
黒良いですか?と担任教師に了解を得てから、リーゼロッテと名乗ったガイジン美少女は、チョークを黒板に走らせた。
『Lieselotte Von Hindenburg』
「リーゼロッテ・フォン・ヒンデンブルクです。両親はともにドイツ人で、5歳までドイツに住んでました。ちなみに日本に住み始めてもう十年近く経つので、もうドイツ語は喋れません」
絶世の美少女の口調は明るくおどけていて、教室に笑い声が上がる。思い切りガイジンの顔から流暢な日本語が出てくるのは、すごく違和感があった。
「名前長ったらしくて面倒くさいから、リーゼって呼んでくださいね」
にっこりと、花が咲く。教室が騒がしくなるわけだ。
「じゃあリーゼ、廊下側端の列、前から二番目な」
はい、と、大きくも小さくも無い声で返事すると、すすっと机の間を縫って席に着いた。転入生を隣に獲得した女子は、嬉々としてガイジン女と話し始めたようだ。ちなみにオレの席はちなみにオレの席は窓際の列の一番後ろだ。ここからだと、亜麻色の髪が楽しげに揺れるのしか見えない。
でも正直、漫画みたいな美少女転入生なんて、どうでも良い。このまま王道ストーリー展開で恋に落ちてやるつもりも無い。
ただ。
「・・・うるっせー」
低い呟きは、意図せず前の席のヤツに届いたようだ。恐怖で固まっている。思わず舌打ちをした。面倒くさいのは嫌いだ。大学入試前の公立高校なんて、どこの教室もみんなピリピリして静まり返っているものだ。受験する気なんて毛頭ないオレにとって、静かで暖かい教室はただの昼寝スポットでしかない。
静かである事を失った教室は、オレにとってはただの部屋だ。勝手に『仲間』だと決められて、同学年の男女とともに押し込められる、恐ろしく窮屈な部屋。ゆっくりと立ち上がってから教室を見渡すと、クラス全員の視線がオレに集まっていた。
「ど・・・どうした、倉田?」
「頭痛いんで。帰ります」
鞄を引っ付かんで、大またでドアから出た。どうせ、家には誰も居ないのだ。
「怖―!めちゃ目つき悪いしっ」
「ていうか一日中寝てるだけなのになんで学校来るんだろうねー」
女子の声が、壁越しに小さく聞こえた。
時刻は、もう七時近かった。
「何してるの、ここで」
突然背後からかかった声に、オレはぎょっとして振り返った。
「捨て猫の世話、とか?」
そこにいたのは、今朝のガイジン女だった。黒いセーラー服は暗い室内に溶けて、異様に白い顔と、襟と袖にある赤いラインが妙に浮いて見えた。
「なんで、ここを」
「なんでって言われてもなあ・・・」
変な女(やつ)。
「見つけたのよ、偶然。引っ越してきたばかりだから、近辺の探索も兼ねてね、散歩してて」
そしたら迷っちゃってさあ、と言って、ガイジン女は飄々と電灯のスイッチに手を伸ばした。もちろん電気など通っていないので、かちん、とむなしい音が響いただけだった。
ここは高校の裏通りから路地に入り、林を少しかき分けたところにある、小さな古びた教会だ。オレは中一の時にここを見つけて、それからなんとなくここに通うようになった。いつもは学校が終わったあと八時くらいまでここでだらだらと過ごし、のんびりと家に帰る。
礼拝者用の長いすはすべて横にどかして、オレは赤い布張りのソファを愛用している。ガイジン女が乗り込んでくる今さっきまで座っていた。ちなみにこれは、奥の神父が住んでいたであろうスペースから運び出してきたものだ。古びてはいるものの、座り心地は悪くない。がらんとした室内には、俺が持ち込んだ雑誌や毛布が散乱している。
「出てけよ」
「いやよ」
即答だった。
俺との問答には鼻から興味が無いらしく、そのガイジン女は室内を物色し始めた。別に見られて困るようなものは無いが、気分のいいものではない。
「おいっ!」
「汚いねぇ、さすが男子。お、ジャンプだ」
オレのことは眼中にも無く、ガイジン女は雑誌をつまみ上げた。
「いい加減にしろっつってんだよ、このガイジン女!!とっとと出てけ、じゃなきゃ追い出すぞ!」
ふざけんな。ここは、オレのものだ。
そう俺が叫ぶと、ガイジン女はめんどくさそうにこっちを見て、
「あたしから見たらあんただってガイジンよ」
と、冷めた目で言った。
怒ってるんじゃない。悲しんでるんでも無い。ただ・・・ひどく冷たい闇が、あるだけだった。
「なんだ、絡んできた不良ぶっとばしたって話だったから、ヒーローみたいなやつかと思った」
そういうと、ガイジン女はため息をついて、雑誌をぱらぱらとめくった。がっかりしているような口調でもなく、ただ淡々と事実を言ったまで、と言う感じだ。
「連絡しないとお父さんうるさいし。帰るわよ、言われなくても」
ガイジン女は、これ貰ってくわねと雑誌を鞄に突っ込んだ。そしてドアノブを掴むと、
「ああ、そうだ」
思い出したようにこっちをむいて、にっと笑った。
ぼんやりと分った。これは夢の中だ。
ランドセルを背負った小さなオレは、家に向かって駆けている。色の無い世界で、ふわふわと失踪している。吐いた息は白く、無造作に巻きつけたマフラーが、ひらひらとなびいた。
そうしてオレは、小さなアパートにたどり着く。オレの家は、二階建てのアパートの粗末な階段を駆け上り、すぐ目の前の部屋だ。
「ただいまー!」
オレは元気よく、そのドアを開けた。1LDKの小さな部屋には、十分すぎるほどの声だ。
小さく足音をたてて、お母さんが出てきた。マジックテープのスニーカーをぬぎ散らかしたまま、お母さんの顔を見上げる。
「お帰りなさい」
お母さんの手が、僕の頭を撫でた。
何でだろう。逆光なのか、それともオレの背が低いのか。お母さんの顔が、ぼやけて見えない。
・・・いや。それよりも、この手だ。部屋が寒かったのだろうか。とても、冷たい。
『本当に、おかあさんなの?』と訊こうとした口は、中途半端に開いたまま止まった。
何でか分らないけれど・・・とても、とても怖かった。
冷たい事以外には、まったくお母さんと変わらない手の感触が。ぼやけた顔が。
――――ひどく、恐ろしかったのだ。
夢の終わりは唐突に訪れた。いきなり上がった大きなざわめきのせいだ。じっとりと掻いた寝汗が、すごく気持ち悪い。どんな夢だったっけ。嫌な夢だった事には、間違いは無いんだが。
「転入生のフォン・ヒンデンブルクだ。自己紹介を頼んでいいかい?」
「はい」
ワンテンポ遅れて、オレは目を見張った。黒板の前に、黒いセーラー服を着たガイジンが立っていた。
何人(なにじん)だろうか。二重瞼の目は、エメラルドグリーンの瞳を称えている。テレフォンショッピングで見るような宝石とは輝きの格が違う、吸い込まれそうな瞳だった。
髪は亜麻色で、毛先がゆるゆると巻いている。
真っ白な肌に、薔薇の花びらのような唇。つんと上向きの鼻梁。文句の付けようがない美少女だった。
「フォン・ヒンデンブルクって言うのは名字で、名前はリーゼロッテといいます。ええっと」
黒良いですか?と担任教師に了解を得てから、リーゼロッテと名乗ったガイジン美少女は、チョークを黒板に走らせた。
『Lieselotte Von Hindenburg』
「リーゼロッテ・フォン・ヒンデンブルクです。両親はともにドイツ人で、5歳までドイツに住んでました。ちなみに日本に住み始めてもう十年近く経つので、もうドイツ語は喋れません」
絶世の美少女の口調は明るくおどけていて、教室に笑い声が上がる。思い切りガイジンの顔から流暢な日本語が出てくるのは、すごく違和感があった。
「名前長ったらしくて面倒くさいから、リーゼって呼んでくださいね」
にっこりと、花が咲く。教室が騒がしくなるわけだ。
「じゃあリーゼ、廊下側端の列、前から二番目な」
はい、と、大きくも小さくも無い声で返事すると、すすっと机の間を縫って席に着いた。転入生を隣に獲得した女子は、嬉々としてガイジン女と話し始めたようだ。ちなみにオレの席はちなみにオレの席は窓際の列の一番後ろだ。ここからだと、亜麻色の髪が楽しげに揺れるのしか見えない。
でも正直、漫画みたいな美少女転入生なんて、どうでも良い。このまま王道ストーリー展開で恋に落ちてやるつもりも無い。
ただ。
「・・・うるっせー」
低い呟きは、意図せず前の席のヤツに届いたようだ。恐怖で固まっている。思わず舌打ちをした。面倒くさいのは嫌いだ。大学入試前の公立高校なんて、どこの教室もみんなピリピリして静まり返っているものだ。受験する気なんて毛頭ないオレにとって、静かで暖かい教室はただの昼寝スポットでしかない。
静かである事を失った教室は、オレにとってはただの部屋だ。勝手に『仲間』だと決められて、同学年の男女とともに押し込められる、恐ろしく窮屈な部屋。ゆっくりと立ち上がってから教室を見渡すと、クラス全員の視線がオレに集まっていた。
「ど・・・どうした、倉田?」
「頭痛いんで。帰ります」
鞄を引っ付かんで、大またでドアから出た。どうせ、家には誰も居ないのだ。
「怖―!めちゃ目つき悪いしっ」
「ていうか一日中寝てるだけなのになんで学校来るんだろうねー」
女子の声が、壁越しに小さく聞こえた。
時刻は、もう七時近かった。
「何してるの、ここで」
突然背後からかかった声に、オレはぎょっとして振り返った。
「捨て猫の世話、とか?」
そこにいたのは、今朝のガイジン女だった。黒いセーラー服は暗い室内に溶けて、異様に白い顔と、襟と袖にある赤いラインが妙に浮いて見えた。
「なんで、ここを」
「なんでって言われてもなあ・・・」
変な女(やつ)。
「見つけたのよ、偶然。引っ越してきたばかりだから、近辺の探索も兼ねてね、散歩してて」
そしたら迷っちゃってさあ、と言って、ガイジン女は飄々と電灯のスイッチに手を伸ばした。もちろん電気など通っていないので、かちん、とむなしい音が響いただけだった。
ここは高校の裏通りから路地に入り、林を少しかき分けたところにある、小さな古びた教会だ。オレは中一の時にここを見つけて、それからなんとなくここに通うようになった。いつもは学校が終わったあと八時くらいまでここでだらだらと過ごし、のんびりと家に帰る。
礼拝者用の長いすはすべて横にどかして、オレは赤い布張りのソファを愛用している。ガイジン女が乗り込んでくる今さっきまで座っていた。ちなみにこれは、奥の神父が住んでいたであろうスペースから運び出してきたものだ。古びてはいるものの、座り心地は悪くない。がらんとした室内には、俺が持ち込んだ雑誌や毛布が散乱している。
「出てけよ」
「いやよ」
即答だった。
俺との問答には鼻から興味が無いらしく、そのガイジン女は室内を物色し始めた。別に見られて困るようなものは無いが、気分のいいものではない。
「おいっ!」
「汚いねぇ、さすが男子。お、ジャンプだ」
オレのことは眼中にも無く、ガイジン女は雑誌をつまみ上げた。
「いい加減にしろっつってんだよ、このガイジン女!!とっとと出てけ、じゃなきゃ追い出すぞ!」
ふざけんな。ここは、オレのものだ。
そう俺が叫ぶと、ガイジン女はめんどくさそうにこっちを見て、
「あたしから見たらあんただってガイジンよ」
と、冷めた目で言った。
怒ってるんじゃない。悲しんでるんでも無い。ただ・・・ひどく冷たい闇が、あるだけだった。
「なんだ、絡んできた不良ぶっとばしたって話だったから、ヒーローみたいなやつかと思った」
そういうと、ガイジン女はため息をついて、雑誌をぱらぱらとめくった。がっかりしているような口調でもなく、ただ淡々と事実を言ったまで、と言う感じだ。
「連絡しないとお父さんうるさいし。帰るわよ、言われなくても」
ガイジン女は、これ貰ってくわねと雑誌を鞄に突っ込んだ。そしてドアノブを掴むと、
「ああ、そうだ」
思い出したようにこっちをむいて、にっと笑った。