46度ずれた兄妹と、0度の世界
頭の上に兄の腕があるにも関わらず、仔鞠はけらけらと笑う。すると、インターホンが押されたらしく、ブザーが高らかに鳴り響いた。
「あ、仔鞠、出て」
「ういうい。仕事以外なら追っ払う?」
「おう」
この兄妹の間で決まっている事。それは、仔鞠以外がインターホンでの応対に出ない事。そうでなくてはいけないのが、兄妹での取り決めだった。
「おー…話をすればなんとやら、だよ。おにーやん、いっちゃんが『雅弥が仕事忘れてった』って言ってるよ―」
「…んあ? …あ―…ん―…あ、本当だ、忘れてったぽい。衣鶴なら入れていいや」
「うーい。んじゃぁいっちゃんどうぞー」
モニタ越しに声を掛けてロックを外せば、相手から返事があったのだろうケラケラと笑いながら仔鞠は玄関へと兄を押し出した。
「やぁ、我が社のホープ雅弥くん、折角君の超絶苦手な真夏の炎天下に会社まで着て貰ってなんだけど、仕事置いて帰るっていうのはささやかな反抗かなあ?」
「やぁ、我が社を親から譲り受けて二年目にして世界規模の会社にしちまった衣鶴社長。俺が真夏かつ炎天下が駄目ともう十年以上のつきあいで解ってるのに呼び出してくれてアリガト」
玄関先で繰り広げられる地味にして大胆な口論に、仔鞠は兄の背中に飛びつくように乗ると来客に向かって手招きをする。
「いっちゃん、久しぶり―。折角なんだし、上がると良いよー。勇人も居るし。上がると良いよ―」
仔鞠が飛び乗った事によってよろついてがっぽりと空いた玄関先から手招きをして来客である衣鶴を招き入れると、衣鶴は驚いたようにリビングで事を静観していた勇人を見た。
「おー勇人くん。お互いまだまだ苦労してんねー。でもまだまだまだまだ苦労するからねー。うん、きっとずっと永遠に永劫に苦労するよー。かくいう君は仔鞠ンの送迎かい?」
さっぱりと結い上げた髪を結び直しながら衣鶴が問えば、勇人も苦笑いで言葉を返す。
何だかんだ言いつつも、この二人は数少ない兄妹の友人であるから、衣鶴も勇人もお互いに面識がある。そもそも、学校で先輩後輩をやっていた上、部活の部長と部員、という立場だったのだから、なおのこと。
「やー、衣鶴先輩、相変わらずの敏腕っぷりっスねー。千木センセが鼻高々に衣鶴先輩の事自慢してますよ」
雅弥と衣鶴の担任であり、そして今は仔鞠達の担任である千木の話題を出せば、衣鶴はにやりと右の口角を上げる。
衣鶴のその笑い方は、極々自然な最も自然な笑い方であって、けして何かを企んでいる訳では無い。寧ろ企んでいる時こそ、最も普通の笑顔を浮かべるのだから。
「やぁ、そりゃぁせっちゃんセンセは鼻高々でしょーよ。何せOGでトップレベルの資財の持ち主がOBで前代未聞の脳味噌と手腕の持ち主掻っ攫って会社運営してんだから」
座り心地抜群のソファに我が物顔で腰かけ、空いているグラスを手にとって何事もなくテーブルにあるアイスティーを注ぐ衣鶴から手渡された書類を見ながら、雅弥は思わず声を上げる。
それは極々人間らしいというか、珍しい位普通な仕草だったので、部屋にいた誰もが思わず固まった。
固まっただけに止まらず、衣鶴と勇人は顔面蒼白になりつつある。
一瞬固まったがやはり兄妹というべきか、仔鞠は直ぐに兄の元に寄ると、原因である書類を覗き込んだ。
相変わらず仔鞠には理解しかねる単語を連ねる書類は何の変哲もなく、兄の顔と書類を交互に見やる。
「おにーやん、人間っぽい事をしてどうした。妹は心臓が止まるかと思うくらい吃驚してるんだけど。てか、いっちゃん達はもうこの世のモノとは思えない顔でおにーやんを見ているけど」
「…ん? おぉ……やべぇ、衣鶴のレア顔。写メっとこ」
ぱち、と聞き逃しそうな程小さなシャッター音を立てて衣鶴の変貌っぷりをカメラに納めると、雅弥は事も何気に書類を丸めて未だに呆然とする衣鶴の頭をぽんぽんと叩いた。
「おーい。シャチョ。俺が会社に行った時と書類が丸ッ丸違う上に枚数的に格段増えてるぞ。何だこのSランクの仕事三件二週間で片づけろって。尋常じゃないだろうがよ。俺をどういう認識してるんだ、お前は」
雅弥の言葉で漸く現実に戻ってきた衣鶴は、あーだとかうーだとか何やら悩んだような声を出すと、改めて雅弥を見た。
それからいやに真面目な声で、けれど完全に表情はおちゃらけて簡単にのたもうた。
「いやぁ、雅弥が帰ってからね、飛び込みで急遽入っちゃってね。んなものだからウチ大慌てでさぁ…しかも火急が三件、その上Sランク、ってくりゃぁ、そう簡単には頼める相手居ないしさぁ。ねー、雅弥頼むよー。報酬は弾むし、璃空には話つけて今回はパスっておくからさッ!」
ぱしっと両手を胸の前で合わせてお願いっとポーズを決めるモノの、雅弥はため息だけでそれを片づけると、丸めた書類を改めて見た。
「いーけど、璃空んとこ二週間分の報酬より弾めよ。じゃなきゃ肝心な所でバグらせてやる。んでもって会社のパソコンを完膚無きまでに再生不能になまでにクラックしてやる」
眼鏡越しの瞳はどんよりと曇った、何よりも殺気がましいオーラを放出しながら手元の書類を見つめる。 視線で人が殺せるなら、恐らく今の雅弥は視線で書類を燃やす事など容易いだろう、と容易に想像できる。
「あんたの冗談は冗談に聞こえないよ…。わぁってるわぁってる。勿論報酬はとんと弾むし、璃空には話つけておくし、その目の下のクマどうにかして欲しいから有給も出すからさ! ゴショーのお願いだからッ!」
「いっちゃん、おにーやんは冗談なんて生まれてこの方言った事無いよ…」
兄の殺気がましいオーラから逃げるように勇人の隣に避難した仔鞠が、衣鶴に向かって声を掛ける。
冗談とはてんで無縁とは思えない雅弥だが、実際のところはそうであり、冗談でじゃれているのだと思いかねない実妹とのやりとりはいつでも本気以外の何者でもない。
「…………そ、そーだったわ…。雅弥が冗談なんて言った日には世界が氷河期迎えるってのが通説だったね…」
がくりと肩を落とす仔鞠に、雅弥は先程までの殺気がましいオーラはどこへやらと言わんばかりのまばゆい笑顔をむける。
「…つーわけで、覚悟しろ。衣鶴」
まばゆい笑顔の割にはからきし笑っていない目に出逢った衣鶴は、引きつった笑いを浮かべたい所にも関わらず己の体質上にこやかな笑顔で返す。
「そりゃぁもう、春のように弾ませて貰うわ」
「……………なるほど、こうやって先輩は儲けてるわけな…。仔鞠、お前のお兄さんは相変わらずすげぇな…」
呆然とした勇人の台詞に、仔鞠も神妙な顔で頷く。
「そーだよ…だから何故か両親の仕送り無しで生活できるようになっちゃったんだよ…つか、今じゃ逆にこっちが送るんだけどね…」
今は揃ってフランスに滞在(逃亡)している両親を思い出しながら、仔鞠はぽつりとつぶやいた。
「あ、つか、おにーやん。その仕事が終わるまで、あたしのお願いお預け!?」
「あ、やー…それは、多分、大丈夫…? うん、まぁ、どーにかなる」
半ば虚ろな瞳を眼鏡の奥から覗かせたまま書類をちらりと見やると、テーブルカウンターの上に置いてあるスイッチを押す。
作品名:46度ずれた兄妹と、0度の世界 作家名:彼岸坂稚弥