46度ずれた兄妹と、0度の世界
地軸は23.4度傾いている。
けれど、人間の感覚は、一度たりともずれていない。
そんな、ずれていない世界であの兄妹が居た。
真夏の炎天下の中、ワンピースの少女は片手に日傘、片手にアイスを持って佇んでいた。
道のど真ん中。白線の真上。 少女が目の前に居るモノをじぃっとその眼で見つめていると、暑さに耐えかねるアイスの滴がぽたりと落ちる。
それに慌てて少女はアイスを頬張ると、また目の前に居るモノをじぃっと見て、漸く一言発した。
「………………おにーやん、それ、すっごく熱いと思う」
愛用のバイクごと倒れている青年に向かって発した言葉に、今更と言わんばかりに青年は目を動かすだけで少女を見る。
「お前な…兄貴がぶっ倒れてんのに呑気にアイス食ってンじゃねぇっての…」
「だっておにーやん、熱いの駄目じゃん。夏は一歩も外でないじゃん。そんなおにーやんだから安心して外出したのにさ、なんでこんなとこでぶっ倒れてるわけ?」
倒れていた青年は漸く身体を起こすと、バイクを立て直し服の汚れを払った。白のノースリーブのダメージシャツに黒のデニム、黒の安全靴と至ってラフな格好は目立つ外傷も無く、少女は相変わらずの事に溜息を吐いた。
「おにーやん、水分足りてないっしょ。ほい、水」
「ん」
少女が差し出したペットボトルに入った水は少女の手によって無遠慮に数センチ高い青年の頭上に注がれる。
「…ふぅ、生き返った」
「まぁ、取り敢えず帰ろうか」
ぼたぼたと水をしたたらせる青年が頷けば、少女の後ろで呆然としていた少年は思わず、自らの存在を主張するかのような大声を上げた。
「てかッ! 先輩倒れてんのに吃驚したけど、仔鞠何事も無く突っ立つなよ! そんでもって先輩も! 水一リットルも頭から注がれておきながらなに普通にしてんすか!」
少年の声に、今気付いたと言わんばかりに青年は仔鞠と呼ばれた少女の後ろを見て、楽しそうに口角を上げる。
「やぁ、勇人くん。今日も仔鞠を送ってくれてたのかな? それはそれは有難う。何だったらウチでお茶でもしていかないかい?」
「あ、それさんせー。勇人、あがってきなよ」
未だにぽたぽたと水をしたたらせる青年がことも何気に笑えば仔鞠は其れに同調するが、青年の言葉の中に勇人の問いに対する返事はない。
「あ―…はい。んじゃぁ、潔くお邪魔させて頂きます」
深く深く深く、息を吸い込んで勇人は諦めた。
彼や彼女に、一般論を説いても今更どうにもならない事を、生まれてこのかた二十二年で学んでいるというのに。 そもそも、この兄妹とまともに付き合っていられる事が出来るのは数えきれるくらいなのだから、それもそれで快挙だが。
しょうもない話をしながら、兄妹が住むマンションまで来ると、青年は先に行くようにと告げると、バイクを置き場に持って行った。
「ま、先に行けっておにーやんいつも言うけど、あたしが遅いからおにーやん追いつくよね、いつも」
けらけらと笑う仔鞠の言葉は否定できない。
恐ろしいまでのマイペーススローペースの仔鞠に追いつくのは小学生でも容易いだろう。
キーロックを開けてエレベーターの前まで行くと、其処には既に青年が待っている。仔鞠の言葉は嘘ではなく、本当の事。
「おう。仔鞠、郵便物は?」
「今日は休みだからあるわけ無いんだよ。おにーやん、いい加減曜日くらい覚えてよ」
「……………今日って火曜日じゃねぇんだっけ?」
「先輩…今日が火曜日ならこの時間俺らは本来学校です…」
「あ―…そういえば、そうだ。駄目だよ、勇人。おにーやん、ここ数日徹夜だから曜日感覚がいつも以上にぶっ飛んでる」
呼んだエレベーターに乗り込んで会話を続けていると、仔鞠は兄の頭をぺしぺしと叩く。仮にも、兄に対してそんな行動を取るのはどうか、という一般論はやはりこの兄妹には通用しない。尊敬しようがしまいが、仔鞠は兄に対して恐ろしい程無遠慮だ。
「ん―…仔鞠。お前の手あっつい。日傘持ってた方の手で叩くな。アイス持ってた方にしろ」
突っ込む場所を間違えているとか、最早そんなことは愚問だ。
「あ、よく見たら先輩、髪型変えたンすね」
アシメントリーのショートカットヘアは気付けば軽く結べる程の長さになっている。暑苦しいから嫌だ、などと言う台詞を昔に聞いた覚えがあったような気がして問えば、嗚呼、と気のない返事が返ってくる。
「熱くなるからさ…、ほら、髪の毛汗でまとわりついたら嫌だし。結んだ方が楽かな―とか」
普通は逆の事を考えるだろう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
この兄妹に『普通』を説いても無駄だというのは付き合いだして1年程で痛感したのだから。
エレベーターを出てすぐにあるキーロックを外すと、其処がこの兄妹がすむ一室。
地球温暖化、という深刻な事態に直面している世界を気遣うわけでも無く、きっちりと冷やされた部屋。温度はいつも25度。それは、この兄妹の家では常温だ。春夏秋冬、25度に保たれている。
「仔鞠ー。お前、勇人くんにお茶出しとけ―。あと、俺にも―。俺着替えてくる」
「うーい。…んあ? おにーやん、なんで着替えるのさ?」
「お前が聖水ぶっかけてくれたからだよ」
「…をぉ! いってら!」
冷蔵庫から冷やしてあるお茶を出す仔鞠を見ながら、勇人はそういえば、と話を切り出した。
「先輩、今何してんの? 徹夜がうんたらとか…凄い仕事?」
仔鞠の兄と言えば多方面において何かと名前を聞く事の多い、そう言った趣味の幅が広いものだから、就職において困る事は一切無いという、今のこのご時世に有り余る程うらやましい存在だ。
「ん? おにーやん? あ―…んとねー、違う違う。初めの1日は仕事でだったけど、後はただ単に一回寝れなかったからそのまま寝れてないだけ。仕事は―…えーと、先週までがいっちゃんの所でプログラマーだったから、今週はくーちゃんの所でプランナーかな?」
良くも悪くも、友人の間でたらい回しのように仕事をしている兄に、仔鞠はカレンダーを見ながら確認した。
「しっかし謎だよ…。先輩だったら会社立ち上げるの造作ない位なんだろ? なんでそんなことやってるんだ? 先生嘆いてたぜ?」
今の仔鞠達の担任は、過去に仔鞠の兄の担任もしていた教師で、最近の兄の状況を聞いてそんな愚痴をこぼしていたのを覚えている。
「おにーやんはそういうの向いてないんだよ。今ぐらいのが丁度いいのさ。てか、おにーやんが社長とかなったら世界が傾く」
「をーう、仔鞠。言ってくれるじゃねぇか。安心しろ、既に世界は地軸が23.4度傾いてるからこれ以上は無いぞ」
仔鞠の頭の上に腕を置いてテーブルに置かれたお茶を取って一口飲んだ彼に、勇人はいやに真剣な顔で問いかけた。
「先輩…本当に定職付かないんですか?」
「ん? 根は下ろしてるぞ。衣鶴んところの社員だけど、俺の場合、貸し出し社員? ん? なんつーの? レンタル可能社員だから」
「…派遣社員、ですか?」
「んや。そんなハードなんじゃない。他の会社が衣鶴に金払えば、俺が借りれるってだけ―」
「いっちゃん儲けてるねぇ」
けれど、人間の感覚は、一度たりともずれていない。
そんな、ずれていない世界であの兄妹が居た。
真夏の炎天下の中、ワンピースの少女は片手に日傘、片手にアイスを持って佇んでいた。
道のど真ん中。白線の真上。 少女が目の前に居るモノをじぃっとその眼で見つめていると、暑さに耐えかねるアイスの滴がぽたりと落ちる。
それに慌てて少女はアイスを頬張ると、また目の前に居るモノをじぃっと見て、漸く一言発した。
「………………おにーやん、それ、すっごく熱いと思う」
愛用のバイクごと倒れている青年に向かって発した言葉に、今更と言わんばかりに青年は目を動かすだけで少女を見る。
「お前な…兄貴がぶっ倒れてんのに呑気にアイス食ってンじゃねぇっての…」
「だっておにーやん、熱いの駄目じゃん。夏は一歩も外でないじゃん。そんなおにーやんだから安心して外出したのにさ、なんでこんなとこでぶっ倒れてるわけ?」
倒れていた青年は漸く身体を起こすと、バイクを立て直し服の汚れを払った。白のノースリーブのダメージシャツに黒のデニム、黒の安全靴と至ってラフな格好は目立つ外傷も無く、少女は相変わらずの事に溜息を吐いた。
「おにーやん、水分足りてないっしょ。ほい、水」
「ん」
少女が差し出したペットボトルに入った水は少女の手によって無遠慮に数センチ高い青年の頭上に注がれる。
「…ふぅ、生き返った」
「まぁ、取り敢えず帰ろうか」
ぼたぼたと水をしたたらせる青年が頷けば、少女の後ろで呆然としていた少年は思わず、自らの存在を主張するかのような大声を上げた。
「てかッ! 先輩倒れてんのに吃驚したけど、仔鞠何事も無く突っ立つなよ! そんでもって先輩も! 水一リットルも頭から注がれておきながらなに普通にしてんすか!」
少年の声に、今気付いたと言わんばかりに青年は仔鞠と呼ばれた少女の後ろを見て、楽しそうに口角を上げる。
「やぁ、勇人くん。今日も仔鞠を送ってくれてたのかな? それはそれは有難う。何だったらウチでお茶でもしていかないかい?」
「あ、それさんせー。勇人、あがってきなよ」
未だにぽたぽたと水をしたたらせる青年がことも何気に笑えば仔鞠は其れに同調するが、青年の言葉の中に勇人の問いに対する返事はない。
「あ―…はい。んじゃぁ、潔くお邪魔させて頂きます」
深く深く深く、息を吸い込んで勇人は諦めた。
彼や彼女に、一般論を説いても今更どうにもならない事を、生まれてこのかた二十二年で学んでいるというのに。 そもそも、この兄妹とまともに付き合っていられる事が出来るのは数えきれるくらいなのだから、それもそれで快挙だが。
しょうもない話をしながら、兄妹が住むマンションまで来ると、青年は先に行くようにと告げると、バイクを置き場に持って行った。
「ま、先に行けっておにーやんいつも言うけど、あたしが遅いからおにーやん追いつくよね、いつも」
けらけらと笑う仔鞠の言葉は否定できない。
恐ろしいまでのマイペーススローペースの仔鞠に追いつくのは小学生でも容易いだろう。
キーロックを開けてエレベーターの前まで行くと、其処には既に青年が待っている。仔鞠の言葉は嘘ではなく、本当の事。
「おう。仔鞠、郵便物は?」
「今日は休みだからあるわけ無いんだよ。おにーやん、いい加減曜日くらい覚えてよ」
「……………今日って火曜日じゃねぇんだっけ?」
「先輩…今日が火曜日ならこの時間俺らは本来学校です…」
「あ―…そういえば、そうだ。駄目だよ、勇人。おにーやん、ここ数日徹夜だから曜日感覚がいつも以上にぶっ飛んでる」
呼んだエレベーターに乗り込んで会話を続けていると、仔鞠は兄の頭をぺしぺしと叩く。仮にも、兄に対してそんな行動を取るのはどうか、という一般論はやはりこの兄妹には通用しない。尊敬しようがしまいが、仔鞠は兄に対して恐ろしい程無遠慮だ。
「ん―…仔鞠。お前の手あっつい。日傘持ってた方の手で叩くな。アイス持ってた方にしろ」
突っ込む場所を間違えているとか、最早そんなことは愚問だ。
「あ、よく見たら先輩、髪型変えたンすね」
アシメントリーのショートカットヘアは気付けば軽く結べる程の長さになっている。暑苦しいから嫌だ、などと言う台詞を昔に聞いた覚えがあったような気がして問えば、嗚呼、と気のない返事が返ってくる。
「熱くなるからさ…、ほら、髪の毛汗でまとわりついたら嫌だし。結んだ方が楽かな―とか」
普通は逆の事を考えるだろう、と喉まで出かかった言葉を飲み込む。
この兄妹に『普通』を説いても無駄だというのは付き合いだして1年程で痛感したのだから。
エレベーターを出てすぐにあるキーロックを外すと、其処がこの兄妹がすむ一室。
地球温暖化、という深刻な事態に直面している世界を気遣うわけでも無く、きっちりと冷やされた部屋。温度はいつも25度。それは、この兄妹の家では常温だ。春夏秋冬、25度に保たれている。
「仔鞠ー。お前、勇人くんにお茶出しとけ―。あと、俺にも―。俺着替えてくる」
「うーい。…んあ? おにーやん、なんで着替えるのさ?」
「お前が聖水ぶっかけてくれたからだよ」
「…をぉ! いってら!」
冷蔵庫から冷やしてあるお茶を出す仔鞠を見ながら、勇人はそういえば、と話を切り出した。
「先輩、今何してんの? 徹夜がうんたらとか…凄い仕事?」
仔鞠の兄と言えば多方面において何かと名前を聞く事の多い、そう言った趣味の幅が広いものだから、就職において困る事は一切無いという、今のこのご時世に有り余る程うらやましい存在だ。
「ん? おにーやん? あ―…んとねー、違う違う。初めの1日は仕事でだったけど、後はただ単に一回寝れなかったからそのまま寝れてないだけ。仕事は―…えーと、先週までがいっちゃんの所でプログラマーだったから、今週はくーちゃんの所でプランナーかな?」
良くも悪くも、友人の間でたらい回しのように仕事をしている兄に、仔鞠はカレンダーを見ながら確認した。
「しっかし謎だよ…。先輩だったら会社立ち上げるの造作ない位なんだろ? なんでそんなことやってるんだ? 先生嘆いてたぜ?」
今の仔鞠達の担任は、過去に仔鞠の兄の担任もしていた教師で、最近の兄の状況を聞いてそんな愚痴をこぼしていたのを覚えている。
「おにーやんはそういうの向いてないんだよ。今ぐらいのが丁度いいのさ。てか、おにーやんが社長とかなったら世界が傾く」
「をーう、仔鞠。言ってくれるじゃねぇか。安心しろ、既に世界は地軸が23.4度傾いてるからこれ以上は無いぞ」
仔鞠の頭の上に腕を置いてテーブルに置かれたお茶を取って一口飲んだ彼に、勇人はいやに真剣な顔で問いかけた。
「先輩…本当に定職付かないんですか?」
「ん? 根は下ろしてるぞ。衣鶴んところの社員だけど、俺の場合、貸し出し社員? ん? なんつーの? レンタル可能社員だから」
「…派遣社員、ですか?」
「んや。そんなハードなんじゃない。他の会社が衣鶴に金払えば、俺が借りれるってだけ―」
「いっちゃん儲けてるねぇ」
作品名:46度ずれた兄妹と、0度の世界 作家名:彼岸坂稚弥