天上の夢
それ以上は考えようもなく、我々は黙りこんでしまった。裕福ではない市民たちの家が並ぶ通りを歩き、ひとつ裏の路地に出るとそこは行くあてもなく昼間から界隈をぶらついている貧困者たちや娼婦たちがたむろする地区だった。
私はこのときまで気付かなかったが、この都市は華やかな市場でにぎわう街である一方、あらゆる悪徳をその陰に棲まわせているゴモラでもあった。特に娼婦の数とその習俗は近隣地域で並びもなき悪名を馳せていて、娼婦たちの衣装はあらゆる色で染めたストラはもちろんのこと、あまりに小さすぎて衣服の用をなさない布切れだけを身に着けた者、異国の姫君のような格好と振る舞いで男の気を引く者、あるいは異国の貴公子のように作り物の細い剣を腰に下げている者、さまざまな神に仕える尼僧の格好をした者、銀の紗だけをまとって妖精を気取る者、あえて革鎧を着てあたりをうろつく者、その他ありとあらゆる格好の娼婦たちが存在していた。しかし黒い衣装を身にまとった娼婦だけは、なぜかどこにも見当たらなかった。
ひとしきり探しまわってようやく我々は<鼠と猫>の会館を見つけ出した。たしかに崩れかかっていて、柱も梁も朽ちかかり会館などと気取った名称でよばれるような代物ではなかったが、我々にはその敷居をくぐるしか選択の余地はなかった。
ぼろぼろの机の前に座っている痩せた男と私の目があった。薄暗い建物の中に入ると隅で何か小動物がちょろちょろと逃げていく気配がした。鼠と猫というよりも、鼠の巣の名称のほうがふさわしいなと私はふと思った。
「あんたたちは知らない顔だな。何の用だ?」
男が不機嫌そうな声で言った。どこか苛立っているような感じで、明らかに我々をよそ者として警戒していた。
「私は最近行商を始めた者ですが、あなたがたの組合に加入させていただけませんでしょうか。<鼬の銀貨>のとある方にこちらの組合を紹介されたのです」
「紹介というより、たらい回しにされただけと言うべきだな。見ての通り、うちは貧乏だ。最近じゃあ商人の頭数は多すぎて、どこも大変なんだよ。あんたのような新規加入者の世話をする以前に、すでに加わっている商人たちの生計を支えるだけで精一杯なんだ。――おい! あんたは出入り禁止だろ!」最後の言葉は我々ではなく、背後にいる人物に対しての言葉だった。振り返ってみると、異様に年老いた背の低い男がこそこそと立ち去る後姿が見えた。
「ああいうやつのように、上納金もおさめずあるときふっと消えてしまう奴も多いんだよ。そのせいで財務が逼迫しているというのもある。だから、今あんたらを組合に加えることはできないな」
男はそれ以上とりつく島も見せない感じだった。アレクセイは仕方ありませんねと肩をすくめ、このみすぼらしい家を後にした。
「やれやれ。どうするかな」
日はだんだんと暮れかかっていた。夜が近づいてくるとこの界隈の住民は活発になってくるらしく、どこにこんなに人間がいたのかと思うくらいの住人が家の外へと出てきた。
我々は路地を曲がってはまた曲がり、そのどんづまりにあった一軒の宿屋兼酒場に入った。娼婦やその他悪漢どもが根城としているようなところで、我々は入ってくるだけで白々しい視線を浴びた。
アレクセイはそのような視線には動じないものなのか、すぐに暗い片隅の卓に座った。
「結局我々は実質上、合法的な手段での成功は望めないようだな」
「組合には入れませんでしたからね」
「だったら、非合法の手段を用いて生計を立てるしかないのではないかな? 法が我々を守ってくれないのなら、我々も法を守るいわれはない」
「その論理はおかしいですよ。ただ組合には入れなかっただけじゃないですか」
「だがそのおかげで、私は商売のできない商人になってしまったのだぞ。まあそれは置いといて、これからどうやって生計を立てていくかが問題だな」
「また農村に行って商売をするというのは? 村では普通に商売ができましたし」
「却下だ。無知な農民相手に商売をして何が楽しい?」
私は馬鹿馬鹿しくなって口をつぐんだ。するとしばらくしないうちに我々の座っている卓に、一人の貧相な男がやってきた。風体からして我々と同じ行商であるようだった。
「ここは私の席ですよ」
「左様で。まだ隙間がありますから、どうぞお座りください」
おそらくここの常連である男は、遠まわしに我々に退席するように促したのだ。だがアレクセイがびくともしないのを見ると、肩をすくめて近くから椅子を引き寄せ卓の周りに座った。
「周囲の人間から厚顔無恥だって言われてませんか、あなたは」
「そういうことはついぞ聞いていませんね」
私は、そう言えば今までアレクセイの周囲には一体何人の“人間”がいたのかとふと疑問に思った。
「いや、あなたには参りましたよ。お見受けしたところ、行商でしょう? 私とおなじ」
男は態度をころりと変えて、友好的な口調になった。
「そうですが、何か?」
「先日、私は魅力的な商品をいくつか手に入れたんですよ。私一人でさばいてもよろしいのですが、せっかくですからあなたに一つお譲りしたいと思いまして。もちろん商品ですから、仕入れ値で買い取っていただきたいのですがね」
「ほう」興味をにじませる声でアレクセイが言った。「一体どのような」
「ああ! 私の話を気に入ってくださりましてありがとうございます。実はですね、この指輪なのですよ」彼はそう言うと、懐から針金をまいたようなちゃちな指輪を取り出した。
「これはですね、さる太古の王の墳墓から出土したいわくつきの指輪なのですよ。この王は非常に数奇な運命を辿った男でして、武運に恵まれ魔術に長けていたために地上の多くを支配下に置いたのですが、晩年にとある奇怪な過ちを犯したために王国は崩壊し、その王名は以来あらゆる記念碑と歴史書から削り取られることとなりました。
さてこの指輪は王が彼のもっとも寵愛する妾妃に手ずから造って贈ったもので、彼女はこの指輪のために寵愛が衰えたのちも幸運に恵まれ、自らの緑滴る大邸宅の中、家族の見守る前で安らかに天上に召されました。そののち指輪は彼女の長男に贈られ、彼が天寿を全うするとその価値をわからぬ親族の手で売り払われてしまい、その後の行方は全くつかなくなりました。
再びこれが世の人々に知られるようになったのはとある村の娘がこれを手に入れて身につけたために公爵の目にとまり、ついには公爵妃として世の栄華を極めたからであります。しかし公爵妃は晩年この指輪をうっかり小間使いに盗まれてしまいました。この女は玉の輿に乗って幸福の絶頂に至りましたものの、指輪を公爵妃から盗んだということを気に病んでこっそり通りかかった行商に売り払ってしまいました。この行商というのが私のことで、この幸運の指輪があなたさまの目の前に置かれているということです」
男はすべてを言いおわって微笑んだ。私は目の前で繰り広げられた驚異の物語を目を丸くして聞き入っていたが、アレクセイはニヤニヤ笑って卓の上に転がっている指輪を指先で突っついた。
「私もこの指輪についての話を知っているな。だが、あなたの話とはだいぶ違うようだ。