天上の夢
「地下からうめき声が聞こえるとか、誰かが急に跡形もなく消え去ったとか、あとそういえば、いつかそいつが地上にあらわれてくる話なんてのもあったね」
「標準的な都市伝説ですねえ。ありがとうございました」
そう言うとアレクセイはおかみに別れを告げて、大通りに出た。
「昨日あんなことを言ったのに、まだあのいかさまの尻馬に乗るつもりなんですか?」
「そうだなあ。ああは言ったものの、せっかく手に入りそうだった推薦状をまだ貰っていないんだよ。今度商売をしがてら推薦状を取りに行って、彼らの茶番からはおさらばしようと思っているんだが」
「でも、ゴリアスにはどう言うつもりですか? あんなになじられたんですから、仕返しをしかけてこないとも限りませんよ」
「あの男は手の内をさらさずにいればよかったものの、ついあんな稚拙なことを言うので私も度を過ぎてしまったようだなあ」
「考えもなしにあんなことを言っていたんですか?」
「考えてみれば、彼らが真の災難を招く可能性はそうあるわけではないのだが。こまごまとした不祥事なら、それこそ今でさえ起きないのが不思議だったとしても」
「で、どうしますか?」
「とりあえずまた魔術の道具を買ってこよう。今度は単価の高い儀式用の器具を仕入れて、エルトリードに売るなり他に転売するなりすればいい」
「儀式用? たとえばどんなものがあるんですか?」
「魔術師が身を守るために用いるものとして多く使われているのが魔術剣だ。それから四大元素の象徴物、タブレット、渾天儀、六分儀、占い板、ホロスコープ、その他さまざまなものがあるな。高価なものなら美術品としての価値もある」
「効果はあるんですか?」
「効果のほどを聞きたいか? もちろん、ほとんどのものはただのガラクタかよくて骨董品だ」
「へえ」私は少しがっかりして言った。
「ん? それでは不満か? 実はガラクタではないものもあるというのはこの世界の常識だぞ。異界を覗きこむことのできる鏡もあれば、劫初の昔に時間をさかのぼることのできる飲み物もある。だがなあ、それを何も知らないものに売るのは無責任というよりも残酷なことだ。異界も時間の果ても、まあ極めて平和なところとは言い難いところだからな」
アレクセイは武器のおいてある店に立ち寄って、それほど高価ではない細身の剣を手に取った。手にとって重さと形を少し確認しただけですぐにそれを買ってしまったので、私は切れ味を確認しないんですか、と尋ねた。
「魔術剣に切れ味は関係ないよ。刃をつぶして使う魔術師もいるくらいだ。実体を持たないものは物質の剣では切れないし、憑依状態になった術者が手近な人間を手に持った魔術剣で切り付けるほうがよっぽど危険だ」
そう言って私に購入した剣を押しつけた。細身ではあるけれども剣は剣なので、持ってみるとやはり重たいものであった。アレクセイはその店で木製の柄の短剣も買い、それから他の店で六分儀や占星術に関する細々とした品物や錫製の盃などをいくつか買いこんだ。
「護符と違って、かさばりますね」
「その分高く売れるぞ。やはりこういうものを扱わないと、魔術具の商人とは言い難いな」
そのようなことを言いつつ宿に戻って商品を仕舞っていると、おかみがあんたらに用があるって言う人間がいるよ! と階下から怒鳴ってきた。我々が急いで宿屋の戸口に行くと、そこには全く見たこともない男が立っていた。風体はだらしなく、口を開くと黄色い乱杭歯が見えた。
「あっしはエルトリードさまのお屋敷から来ました。女主人さまが今晩の屋敷で儀式をやるそうで、あんたにご出席ねがいたいということです」
「ゴリアスがそう言っていたということか?」
「あっしは頭が悪いから、詳しいことはわかりません」
アレクセイはため息をついた。
「よいでしょう。あなたのご主人に、喜んで参りますとお伝えください」
それを聞くと男はにっと嫌な笑いをした。
「ありがとうごぜえました。そう言ってくだすって嬉しいですよ」
男が出ていくと、おかみが嫌悪感をあらわにして顔をゆがめた。
「あの屋敷じゃあんなやつを召し使いにするわけかい? ごろつきもいいところじゃないか。あの間抜け面! いったい今までどんなことをしてきたのやら。やっぱり、あの屋敷に行くことなんかないよ」
「そう言われましても、私たちは彼らの問題に深く関わってしまったのですよ。あんな男ばかりが使用人ではありませんでしたからご安心ください。彼は私が見たこともない男ですから」
「他人のことだからあたしはあんまり首を突っ込まないよ。だがねえ、儲かるからって危ない橋ばかりを渡るってのもよくないもんだ。それを肝に銘じときな」
私はおかみの言葉をもっともだと思った。今進行しているようなことに関わるのは私の倫理に著しく反しているのに加え、私の本能はかすかな危険を感じ取っていた。
アレクセイはおかみの忠告にああとかうんとかといったあいまいな返答しかせずに、二階の部屋に戻ってしまった。おかみは私に、あんたも苦労してるねえとでも言うような視線を投げかけた。
憐れまれるほど私は悲惨な境遇ではないぞ、と思いつつ部屋に戻ると、アレクセイが熱心に短剣の柄に何かを彫っていた。
「何をしているんですか?」
「短剣の価値を上げているんだ。儀式用の短剣の柄になにか名前なり呪文なりが彫られていることを多くの人々は要求しているからな。まあ、実際魔術師はこのような武器に関して、純粋な金属から作られているべきとしているんだが、彼らはそこまで知識のあるほうではないだろう」
「またそういうことを」
「ところで<古き神>のことなんだが、興味が湧かないかい?」
私は先日見た悪夢のことを思い出した。地下にいる神。暗黒の支配者。
「もしかしてあの悪夢も<古き神>の引き起こしたものでしょうかね」
私は以前見た悪夢のことをすべて語った。アレクセイは肩をすくめた。
「さあ、何とも言えないな。悪夢なんて誰でも引き起こせるし……」
「誰でも? それはちょっと違うと思いますが、あなたはどうなんですか?」
「そりゃ勿論、出来るに決まっている。出来たところで今の私には何の利益もないんだが」
「はあ。そうですか」
それは本当なのか、悪夢を見たがる人間は確かにいないが、特定の人間に悪夢を見せたがる人間ならいるのではないか、そんなことを言い返そうかとも思ったが、私は結局言いそびれてしまった。
「話は変わるが、使い魔がいたらいいと思わないか? 早い話が我々の旅の補助となるような生き物のことで……」
「黒猫とか黒い鳥とかそういうやつのことですか?」
私は幼いころに聞いた迷信や怖い話で、魔女に養われるそのような小動物のことを聞いていた。
「それはただの動物じゃないか。たとえばショゴスとか……」
「ショゴス? 聞いたことがありませんね」