天上の夢
「親切な御教示ありがとうございます。あなたのしもべらはこのことを決して忘れません」ゴリアス師の言葉を全員が復唱した。
「それでは、私は地の底に帰る……暗黒の世界に」
誰かが間の抜けたくすくす笑いをした。少女が椅子の上に崩れる音がして、エルトリードは「イレーネ!」と声を上げた。
少女が倒れてしまったので、ゴリアス師は口の中で何かをつぶやき、これで招来を終えると宣言した。すぐに使用人らが広間の蝋燭をつけ、エルトリードとゴリアス師が儀式の道具を片づけはじめた。客人の三人は床に座りこんでだらしのない格好になり、なにやらもぞもぞしていた。
幕が取り払われると、少女が血の気のない顔で椅子に凭れかかっているのが見えた。エルトリードはそれに駆け寄って、慰めの言葉らしきものをかけては脈を取り、腕をさすって頬に接吻した。だが少女が全く反応しないのを見ると、使用人を呼んで彼女を寝台に連れていくように命じた。
客人たちは酩酊したような顔つきで我々に別れを告げて帰っていった。エルトリードも後片付けが終わると自分の部屋に帰っていったので、我々も屋敷から下がろうとしたが、その時ゴリアス師が少し話があるから自分の部屋に来るようにとアレクセイに告げた。
ゴリアス師はエルトリードの屋敷の二階の一室を自室としてあてがわれていたので、我々はそこにゴリアス師自身によって案内された。彼は三脚の椅子を出してきて、我々二人にも座るように勧めた。
「アレクセイよ、お前は大した商売人だな。わかっているだろうから長い御託は述べずに言うが、私と手を組む気はないか?」
我々が椅子に座るとすぐにゴリアス師はこう切り出した。
「手を組む、とは?」アレクセイはとぼけた顔をした。するとゴリアス師はさっきの威厳ある顔つきとは全くちがった、粗暴な口調になった。
「あれは俺の儀式なのだ。俺が考え、用意し、あの愚かな女主人を信じ込ませてここまで馬鹿げたことをやってきたのだぞ。それをお前は一回でぶち壊しにしようとした。どうして、そのようなことができるのだ?」
私は思わず言ってしまった。
「馬鹿げたこと? デタラメの儀式をやっていたんですか?」
アレクセイはため息をついた。
「ヨハネスよ。なぜお前は考えればわかることを他人に尋ねるのだ? それはともかく、私にそのようなことをどうして、とお尋ねになられましても困ります」
ゴリアス師は椅子に深く腰掛け、穏やかな声に戻って言った。
「だから尋ねることはしない。私が返答を求めているのは、我々の儀式にお前が加わって利益を得る代わりにその利益を我々と折半しないかという問いかけだ。お前の近晩の商売も、我々の下準備あってこそのものだと思え」
「左様でございますねえ。それに関しては充分あなたがたに感謝しておりますよ。しかしいかにペテンと申しましても、あのような黒魔術の真似事をしてみだりに神の名を呼ぶというのは、あまりに危険と存じます。現世など眼中にない神といたしましても、このように己が名を連呼されるということにはよい気分がしないでしょう」
「それこそただのペテンだろうが。まるで<古き神>が本当に存在するようなことを言うんだな。だったらそなたの涜神というのも、考えてみるべきではないか?」
「もちろんおわかりだと存じますが、それとこれはまったく違いますよ。私は神に関する知識を、顧客に秘密めかして伝えます。それが皆様方の好奇心にとってはまたとないスパイスであることを私は知っていますらね。翻ってあなたは安っぽい舞台装置と大げさな儀式で神秘の大安売りをしておられる。加えて、あなたは儀式の途中に人の心をかき乱す薬品を御使用になられましたね。あのような薬物はたしかに容易に感覚をかき乱して人の心を従わせますが、中毒症状や致死量以上の摂取など、使用事故の絶えぬものでございます。もし事故をきっかけにあなたがたの儀式が他人の目に触れ、ひいてはあなたの詐欺行為が明らかになったらいかがいたしましょう? そのような危険性に思い至らぬ人物と共同する仕事など、いかなる仕事であっても私は引き受けないことにしているのですよ」
「結局ケチをつけるだけか。お前がもう少し賢ければ、この申し出を断ることなど考えないだろうに。私はお前を女主人に詐欺師だと伝えてもいいのだぞ。女主人が信じなければ、役人にも」
「それをあなたの口が言うのですか? お出来にはなりませんよ、そんなこと。なぜならあなたは霊媒の口によって、私こそ儀式に必要な品物を売る商人であると明言したではありませんか。ましてや役人に言うなどありえません。誰であれこのことを知ったものは、
あなたご自身のなさっていることにも興味をひかれるのが当然ですからね」
アレクセイはそこでちょっと口を閉ざし、また続けた。
「しかし、そもそもあなたはいったいなぜ、エルトリードから財産をだまし取るのにこのような手のかかる、悪趣味なことをしているのですか? もっと手軽な方法はいくらでもあったはずです。もしや、これはあなたのもう一つの切なる望みをかなえる方法なのではありませんか? そうですね、たとえば宗教というかたちで人の心の奥底までを従えたいというような」
それを聞くなりゴリアス師の顔の形相が変わった。殺してやる、と怒鳴りまた出て行けと言われたので、私とアレクセイはすみやかに屋敷から退散することにした。
屋敷を出て私は言った。
「本当にこのまま続けるつもりですか? 逃げてしまったほうがいいのでは」
「そう言えば、まだ推薦状にサインをもらってないな。逃げたところでゴリアス師は秘密を知っている我々に何もしないということはあるまい」
「あんなことを言うからですよ」私は指摘した。
「誰にも知られていないと思っていることほど、人間というのは図星を指されると逆上するものなのだなあ。難儀なことだ。困った困った」
アレクセイは呑気そうに頭上の夜空を眺めながらそう言った。
我々は<金の弓>亭に帰って一睡した。その次の一日は市場が休みだったので大した用事もなく過ぎ去った。翌朝になって市場を見て回ろうと階段を降りると、おかみが我々の姿を認めて呼びかけてきた。
「仕事のほうはどうなんだい? 組合には入れなかったと聞いたんだけど」
「それなりですね。この前はとある方の屋敷に行っていたんですよ」
そう言うと、おかみは感心した様子だった。
「おやおや。あんたらは運がいいねえ。どんな方なんだい?」
「さる貴婦人ですよ。この都市で唯一地下に部屋のある屋敷を持っているという……」
アレクセイがそう言った途端、おかみの顔が曇った。
「よりによってあの屋敷なのかい? やめといたほうがいいよ。あの不気味な地下で何を飼っているかわかったものじゃない」
「地下にいるのは怪物ではなく神なのでは?」
「同じだよ。恐ろしいということではね。あれは今でも子供を寝かしつけるときの脅し文句だけど、変なことを本当に経験した人々の話だって、いろいろ聞いたことはあるんだからね」
「ほう」アレクセイは興味ありげだった。「一体どのようなものでしょうか」