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象牙の小函

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 その声の後すぐに、頭上の入り口から油が流れ落ちてきた。それとともに火のついた布らしきものが落ちてきて油に引火し、あたりはすぐに燃え盛る火の海になっていた。
「アレクセイ! 逃げましょう」
 そのとき、彼は組み付いてきた怪物を体から引き離そうと激しくもみあっていた。負傷したガンツは苦痛に顔をゆがめながら階段の方へとよろよろ歩いていた。イリーナはというと、すぐに上に逃げてしまったらしい。
 彼はかぶりをふった。
「ヨハネス、先に上にあがれ。私はこの書物を運ばなくては」
 そういって怪物を引き剥がすと、それは急にはばたいて凄まじい速さで上の入口まで駆け上がり、空に舞い上がってしまった。上では傭兵たちが矢を射かけていたが、どうすることも出来ずに空の彼方に怪物が消えていくのを見あげるばかりだった。私は慌てて階段を駆け上がった。
 地上に出ると、恐怖に凍りつかんばかりの人々の顔が目に入った。私に続いてガンツが階段を登ってきたが、最後の段で足を踏み外して下へと滑り落ちてしまった。
「ガンツさん!」
 地下室の炎はかなり大きくなっていた。たぶん本に火が燃え移ったのだろう。アレクセイはどうしたのか。そう思っていると、ひとつの人影が階段を上がってきた。
「アレクセイ!」
 彼は右手には数冊の本を抱え、左の肩にぐったりしたガンツを背負っていた。いったいどこからそんな腕力が出るというのだろうか。
 彼は地面にガンツを下ろした。彼は階段を滑り落ちた衝撃と怪物の鉤爪でぐったりとしていて、呼吸も浅かった。
「あ、あれは俺の血を吸いやがった。まるで吸血鬼のように……」そう言うと、彼は意識を失った。その体は異常なほど冷たかった。
 私たちはとりあえず使用人のいく人かに彼を街の医者に運ばせた。だが、命に別状のないかどうかは運しだいだとアレクセイは言った。
「なぜ、火などつけさせたのです? われわれ全員が皆死ぬところでした。それに、このままでしたら怪物を殺すことも出来たはずです」アレクセイの口調は厳しかった。
「お前たちはみな助からないだろうと思ったのだ。だから、ここにいる人間だけでも助かるように燃やした」
「これ以降はこういうことのないようにお願いいたします。われわれはこの火で多大な損害を受けました。ガンツ殿を含めて、です」
 彼はそう言うと、左の脇に抱えていた書物をグロスタールに見せた。そのとき、彼はこっそり薄い小さな本を袖に隠すのが見えたが、誰も何も見咎めなかった。
「これが私の救い出した書物です。魔術関連の本だと思いますが、参考のために拝見させていただいて構いませんでしょうか」
「これは違法な黒魔術の本だぞ。兄の持ち物だろうがなんだろうが、読んではならん。ただでさえこんなものが発見されたのは外聞の悪いことなのに、これ以上の不祥事は起こしたくない」
「しかし、事件に関するかもしれない本なのですよ」
「とにかく、お前のようなどこの馬の骨ともつかぬ奴には見せられない。いいな」
「あなたがこんなに頭の固い方だとは知りませんでした。あとで後悔なされないことを願っておりますよ」
「口はばったいことを言うな。イリーナ、他になにかあったか?」
「いえ、何も……」
 私はなぜ彼女が魔法陣について何も言わないのかといぶかしんだ。自分がわからないものについて言及するのが嫌なのだろうか。
「あの怪物は使い魔です。ですからあれを操っている魔術師はたぶんここからそう離れたところにはいないでしょう。一応探してみますか?」アレクセイがそう提案した。グロスタールもそうする以外には何も出来ないと思ったのか、意外なくらいあっさりとそれを認めた。
 われわれは付近の平野や山林を犯人の足跡を追ってくまなく探したが、芳しい成果を上げることが出来なかった。結局犯人は魔術を用いても見つからないくらい巧妙に姿を隠しているか、もうどこかに去っていってしまったという結論に落ち着いて、われわれとアピアスの使用人たちは館に帰ることにした。
「そういえば、以前からずっと思っていたのですが」私ははるか前方を歩いているイリーナをちらちらと見つめながら、大事なことに気がついてそう言った。
「なぜこの世界の人間は、みなドイツ語を喋っているのでしょうか」
「そんなこと私に聞かれてもわからんなあ。でも、ルルイエ語だのアクロ語にくらべればドイツ語のほうがいいに決まっているじゃないか」
「そういう問題じゃないでしょ。まあ言葉がわかるのはいいことなんですがねえ」
「まあ、そんな些細なことは気にするまでもないさ」
 私がその言葉に反論しようとしたそのとき、かすかに澄んだベルの音のようなものが聞こえ、それにすさまじい断末魔の悲鳴が続いた。
 われわれが駆けつけると、イリーナは全身から血を流して倒れていた。その顔はひどい苦痛を受けたようにねじれ、眼球は破裂してぽっかりと穴が開いていた。
「いったいどうしたのです」アレクセイが手近な傭兵に訊いた。
「女魔術師が、樹のむこうに人の気配がすると言って魔法を放ったんだ。そうするとすぐにこんな姿になって……」彼はかなり動揺しているようだった。彼の見た光景がどんなものであったのか、想像したくもない。
「彼女、もう死んでいるぞ」アレクセイがイリーナの傷を調べながら言った。その仕草はあまりにも死者に対して無慈悲に思えた。
「なんですって」私は思わず叫んだ。私は彼女の、もうほとんど見分けのつかなくなった顔を覗きこんで愕然とした。あの美しさは皮膚一枚のものであった。それは私が幼い頃から老いた修道士たちに幾度となく教えられ、神に仕えるものが心得ていなくてはならないことであったが、どうしてこのように無残なかたちで示されなければならなかったのか。神はなぜ美を美のままにとどめておかれないのだろうか。たとえそれが皮一枚のむなしいものであったとしても。
 そこまで考えて、私はこの世界に主なる神のおられないことを思い出した。また、私がイリーナのことを慕わしく思っていたことにも気づいた。それはあまりにも自然な感情だったので、修道士の戒律に反することであることを忘れてしまいそうだった。いや、それこそ汚らわしい情欲の巧みな罠なのだろうか……
「ヨハネス、われわれはもう戻らなくては」アレクセイは私の物思いを破ってそうささやいた。
 確かに、日はもうとっぷりと暮れていた。薄暮の中の山道は足場が悪く危険だった。大気がだいぶ冷たくなっているためか、あるいは続けざまに起きている惨劇のためか私はぞくぞくする感覚をおぼえた。二人を殺した人間は、確かにこの辺りにいるのだ。
「いったい誰がイリーナを殺したんでしょうか。フォーギスを殺したのと同じ人間ですか? それともなにか別のものなのでしょうか」
「あの時、ベルの音がした。たぶんこのまま終わることはないだろうな。なにか並外れた力を感じる。魔術が絡んでいるんだ」
「いったい、これからどうなるんでしょうか。もし目に見えない悪魔に命を狙われたら、われわれには何も出来ませんよ」
「だが、まだ余裕はある。今日は余計なことをしなければもっと人が死ぬことはないだろう。あくまでも慎重にことを行うべきだ。その意味でイリーナは不幸だった」
作品名:象牙の小函 作家名:fia