象牙の小函
アレクセイがそう慰めるように言うと、すぐさま老僕が小匣を絹に包んで運び去ってしまった。私が周囲を見回すと、イリーナは小匣が運び去られた後はすぐに下らない儀式に列席しているかのような興味のない顔をしていた。またガンツという名の傭兵は私と目があうと、にやりと唇をゆがめて腰の剣に手を触れた。
「それで、鑑定の方はいかがでしょうか」アピアスがいかにもほっとした様子で尋ねた。小匣を元に戻せるということで安心したのだろう。
「ええ、あれは正真正銘ゼーナ神の造られた小匣であると思います。そう神殿で証言できます」
「しかし、どうして蓋が開かなかったのでしょうか」アピアスは訝しげに尋ねた。
「わかりませんが、とにかく封印のたぐいに類する魔術は働いていません。たぶん物理的な理由から開かなかったのでしょう。案じることはありません」アレクセイは愛想良くそう答えた。
「では神殿によろしくと伝えておいてください」
「ええ。ちょっと席を外していいですか。厠に行きたいので……」アレクセイはそわそわしながら言った。「それなら階下の、廊下の奥にありますよ」アピアスが親切にもそう言った。
アレクセイが部屋から出ると、今まで黙っていたグロスタールが口を開いた。
「どうかね」
「ええ。安心しました。これで悪い噂も立ち消えるでしょう」
そのとき、アレクセイが部屋の扉を荒々しく開けた。
「フォーギスが死んでいます。こちらに来てください」慌ててきたかのように息が弾んでいた。
「なんだと」
グロスタールとアピアス、それに私とイリーナがアレクセイの後をついていくと、廊下に血まみれの老僕が倒れているのが見えた。アレクセイを除くわれわれはみなその死体を見て息を呑んだ。
老僕は、なにかで喉を深く抉られて死んでいた。血は広い範囲を染めていたが、彼の顔にはひどい苦悶ではなくむしろ純粋な驚きと恐怖が混ざったような表情が浮かんでいた。
「鋭利なもので喉を掻き切られていますね。即死です」アレクセイはこの場にそぐわないくらい明晰に断言した。
彼は扉の開いた部屋を指差した。「窓が壊されているでしょう。犯人はたぶんあの窓から侵入したのではないでしょうか」
「しかし、われわれは誰も何の物音を聞かなかった。そんな短時間で人間を殺し、逃げられる人間がいますか。暗殺者ならありうるが、フォーギスが狙われる理由はない」
「私はまったく犯人の姿を見ていません。たぶん普通の人間の犯行ではないでしょう。たとえば魔術師ならば出来るかもしれませんが」
「そういえば、小匣は無事か?」グロスタールが今気がついたように尋ねた。
「私が見てきます」そう言うとアピアスは廊下の奥の部屋に入った。しかし、すぐに真っ青な顔になって戻ってきた。
「小匣がない。たぶんフォーギスを殺した奴が盗んだのだ」
「なんだって」グロスタールが血相を変えて叫んだ。
私はアレクセイに、あなたがこれを仕組んだのではないかと目で問いかけたが、彼はかすかに首を振った。では、本当に第三者が老僕を殺したのか。
そのとき、廊下で何かが起こっているらしいと知った館の使用人たちとグロスタールの呼んできた傭兵たちがやってきて、あたりは騒然となった。アピアスはどうしていいかわからない様子で青ざめ、グロスタールは突然の事件に呆然とするより不機嫌になっていた。またイリーナは、そして私も少なからず死体の無残な様子に衝撃を受けたようだった。
そのなかで、ひとりアレクセイは飄々としていた。といっても誰に事態の説明をするのでもなく、あたりの様子を気ままに調べまわっていただけだったが。彼が私に手招きをしたので、私は彼を追って館の外の庭へと出た。
「あなたの仕業だと思いました。でも違うんですか?」人気のない所に来たので、私はそう訊いた。
「私があんなことをすると思うかい」
「あなたならしかねないと思って」
「ずいぶん疑われているんだな。まあ君がそう思うのなら仕方がない。どう思われても私には関係ないしね」本当にどう思われても関係ないといった表情で彼はそう言った。
「あなたはもうちょっと外聞に気をつけるべきですよ。たぶん私だけでなく、みなあなたの仕業だと思っているのではありませんか。危険なことにならないうちに本当の犯人が誰かを暴かなくては」
「誰か? 人間ではないかもしれないのに」
「じゃあ、フォーギスを殺したのは人間ではないんですか」
「いや、人間ではない可能性もあると言ったまでだよ。とりあえず今は二階の窓から侵入して、声を立てずに犠牲者を殺してまた窓から逃げられるような存在が彼を殺したとしか言いようがない」
そのとき、一人の傭兵が我々のもとにやってきた。グロスタールからの伝言があるのかと私は思ったが、どうやら違うらしい。彼はわれわれからすこし離れたところで立ち止まった。
「鑑定士殿、あんたがあれだけ度胸のある人間だとは思わなかった。褒めてやるよ」
「これはガンツ殿。お褒めに預かって光栄、と普段なら言っているところですが、どうやらあなたは誤解をしておられるように思えて仕方ありません。私は平和を愛する者です。人殺しなどという人倫にも取ることはいたしません」
「まあまあ。館の中は大騒ぎだから、ここにまで気を配る人間はいないぜ。小匣を盗んだんだろう? そしてそれはまだお前が持っているはずだ。ここでひとつ話があるんだが、どうだい、その小匣をグロスタールではなくこの俺に渡す気はないかい」
「私は小匣を盗んではいません。そのお申し出は私にではなく、あの気の毒なフォーギス殿を殺した人間にする方がよいのではありませんか」
「ふん。どうしてもしらを切るつもりのようだな。だが俺はあんたを殺して小匣を奪いとってもいいと思っているんだぞ。気が変わったらいつでも俺にそれを渡せ。そうすればいくらか金を遣ってもいい。わかったか」
「まったく、お門違いもはなはだしいものです。あなたは私が最初にフォーギスの死体を見たからといって、すぐに私を犯人だと決めつけるほど粗雑な思考しか持たないのですか。なんと嘆かわしいことでしょう。今もこの付近に危険な犯人がいるとも限らないのですから、まずは御自分の身の安全を確保した方がよろしい」アレクセイは普段とは違って激しい口調でそう言った。
「なんとでも言いやがれ。俺は必ず小匣を自分のものにする」
そう言うと、傭兵は向こうのほうへと出て行った。
「しかし、宝物というものも難儀なものだな。それが為にいったい何人が道を誤ったことか」
「宝に罪はありませんが、人の欲が迷いを生じさせるのです。違いますか」
「まあそうとも言うんだろうがね……」
アレクセイはそのまま庭の裏手の方に歩いていった。するとそこには妙な窪みがあって、覗き込むと土が取り払われて四角い石が露出していた。それは、ちょうどなにかの蓋のように見えた。
「ここから妙な力の気配がする。開けてみようか」
アレクセイはそう言うと、大声でグロスタールたちを呼んだ。するとすぐに彼とアピアス、イリーナと傭兵たちが駆けつけてきた。
「なにか見つかったのか」
「ここに妙な蓋があります。ここから地下につながっているかもしれません。皆さんで開けていただけませんか」