象牙の小函
「もういいです。あなたとは話が通じません」私はため息をついてそう言った。
そうこうしているうちに、われわれの一行はグロスタールの甥の住む館に到着した。
館は暗い色をした石造りの建物で、間近にせまった山の姿を背にした平地に立っていた。城門を出てからずっと畑が広がっていたが、ここまで来るとなぜかぷっつりとその農村風景もなくなっていたので、その静寂さはどこか不自然であるとも思えるほどだった。グロスタールの甥は両親が一度に死んでからずっと、この館に住まっているらしい。
「こういうところに来ると、なんだかわくわくしないか?」
「そういう感想は悪趣味だと思いますよ」
グロスタールは前もって連絡していたらしく、一人の老いた召使が扉から出てきてわれわれを迎え入れた。この骨と皮ばかりの白髪の老人は、震える手足でグロスタールの乗ってきた馬を小屋に繋ぐと、老齢のために客たちの荷物を持つことが出来ないことを詫びながら館の中へとわれわれを導きいれた。
「ワシュテク家にようこそおいでくださいました。私は召使のフォーギスです。今しばらくすれば若主人様がおいでになりますので、それまでお待ちください」
われわれは広いが薄暗くて冷たい応接間に迎えられた。部屋の隅にはよく見ると繊細な蜘蛛の巣がそこかしこに張られていて、ここが近頃ほとんど使われてはいないことを物語っていた。
まもなくすると、この館の主人らしき青年が部屋の戸口のところに現れた。青白い顔は皮膚が薄く、多少やつれているようだった。
「ようこそ叔父上がた。わが屋敷でおくつろぎください」
「久しぶりだな、アピアス。いや、どうぞ座ってくれ。遠慮はいらない」
彼はそう言われて、卓のまわりの主人用の椅子に座った。天鵞絨張りの椅子だったが、かなり埃にまみれて古ぶるしい。
「気分はどうだね。最近は家に閉じこもってばかりいると聞いていたが」グロスタールはいかにも親切な叔父といった役どころを演じていた。しかし、それが演技であることは誰の目にも明らかだった。
「私の気分がすぐれないのは、生まれつきですよ。もっとも、この屋敷のせいかもしれませんが」甥のほうはというと、彼のことを明らかに好ましく思っていない様子だった。
「と、いうと?」
「ここはご存知のように幽霊屋敷と世間に名高いところです。頻繁に不思議な事件が起こるのですが、実害がない以上対処のしようがないのです。最近も、ここの周辺で若い女の幽霊を見たという使用人が何人もいます」彼は皮肉げな、なんとも説明のつきがたい歪んだ微笑を浮かべた。
「では、もっと街のにぎやかな場所に来るといい。憂鬱な気分などいっぺんに晴れるぞ」
「考えておきますよ。それで、用件はなんでしょうか」
「実は、ゼーナ神の神官がわが家系の宝である象牙の小匣を調査するために貸してくれとおっしゃられてな。神官たちのお墨付きを得られればわが家名も上がるというものだし、謝礼金もお前に払われるというから、お前にそれを勧めてみようかと思ったのだ。悪い話ではないだろう?」
アピアスは、グロスタールの話に露骨にいやな顔をした。
「しかし、小匣は門外不出の家宝です。そう軽々しく貸し出してよいものではありません」
「まあそういうものなのだろうが、今回は特別だぞ。ゼーナ神は小匣をお造りになられたそのひとであるし、その神官たちも高潔な方々だ」
「そう言われても父の遺言には、決して人に見せたり貸してはならないとあったのです。神官がたには無理であると伝えておいてください」
アピアスは強情な性質のようだった。また神経質そうな顔は穏やかだが、まったくわれわれを受け入れていない様子であった。
「わしは、実はこの話には裏があるのではないかと思うのだ」このままではどうしようもないと思ったのか、グロスタールは低い声で話しはじめた。
「噂によるとゼーナ神殿には、どうやら小匣が偽物ではないかと疑っている人間がいるらしい。本物はとうに売り払って、何の力もない偽物を置いているのだと。それゆえに先代は晩年になると、小匣を他人に見せるのを拒んだとまことしやかに語る者までいる。どうだ、身から出た錆とまでは言わぬが、お前の父親の偏屈さから出たこの噂はみずから否定したほうが早いとわしは思う。ゼーナ神殿そのものを説得するには、真実を見てもらうほかはないのだぞ」
「確かにそのような噂が流れるのは苦痛です。しかし、そのために遺言に反するのもいかがなものかと思うのです。噂などいつの間にか消えてしまうものですし」
「それでは、私がこの場でその小匣を拝見させていただき、噂を否定する証人にならせていただくというのは可能でしょうか」
今まで黙っていたアレクセイが突然話しはじめたので、アピアスはすこし驚いたようだった。
「あなたは?」
「私はアイテム鑑定士のアレクセイと申す者です。小匣を神殿に貸し出すのがご無理とおっしゃられるのならば、わたしが失礼ながらここでそれを鑑定させていただき、後日神殿にそのことを報告するというのはいかがでしょうか。そうすれば、お父上の遺言にはなはだしく背くこともございますまい」
「あなたはそれほど神殿に信用を置かれている者なのか?」
「ええ。それにつきましては安心なされて結構です」
アピアスは決心がつきかねているようだったが、ついに「では、見せるだけ見せよう」と言うと老僕に小匣をとってくるように命じた。
老僕がうやうやしく紫色の絹に包まれたそれを持ってくると、グロスタールは小さく感嘆の声をあげた。老僕は手に捧げ持ったものを卓にそっと置くと、慎重に絹の包みを解いた。
小匣は、大きな象牙の塊をくりぬいて繊細な浮き彫りを施したもののように見えた。両手にすっぽりと収まるほどの大きさであったが、その美しさと貴さはそれまで私の見たもの(といっても物質界のものに限るが)すべてに優っていた。蝶番は黄金で造られ、その側面中央に燦然と輝く大粒の青玉が室内の人間の眼を射た。
「これは素晴らしいものですね。間違いなく、この小匣から強い魔力が発散されています」
「もちろん。鑑定するのにどれくらい時間がかかりますか?」
「いえ、たいした時間はかかりませんよ」
そう言いながらアレクセイはじろじろと小匣を眺め回していた。そしてそっと小匣に触れると、すぐに手を引っこめた。
「失礼ながら、中に何か入っていますか?」
「いや、空だと聞いているが……」と、アピアスが言った。
「開けてみてもよろしいでしょうか」
「では私が開けましょう」そう言うとアピアスは蓋に手を伸ばして開けようとしたが、蓋はびくともしなかった。
「変ですね。鍵をかけているわけでもないのにこんなにがっちり閉まっているなんて」
何度かアピアスは蓋を開けることを試してみたが、いっこうに蓋が開くことはなかった。青年の顔は力を入れすぎたことでうっすらと高潮していた。
「もしかしたら、中で何かが付着しているのかもしれません。蓋を開けるのはやめておきましょう。壊れたら元も子もありませんし。鑑定の方はもう済みました」