象牙の小函
だが、私の魔術の研究にとってみれば、これは吉兆である。ニャルラトテップは鰐神セベクにたいして不思議な関係を持っているらしい。その「カルテネルの黒き使者」の助けがあったのだから、この魔術の成功する確率はきわめて高い。
12月5日
魔術は成功だった。エレンは蘇った。だが……。
エレンは冥界からここに還ってくる苦痛に耐えられず、発狂してしまった。私のことだけでなく、生きているものすべてを(彼女も生物学的には生きているのに)憎んでいる。だが、一方では私のことを愛しているとも言った。私はもう耐えられない。そう思ってエレンを私の地下の実験室に閉じ込めた。
ああ、彼女を殺すことが出来たのなら! そもそも、蘇生させなければよかった。しかし私は彼女を再び殺すことも出来ない。彼女への愛はもう消えてしまったが、昔愛した人間なのだから。
1月13日
妻が病に倒れたので、私はずっとその看病をしていた。
そういえば、私は妻をずっと顧みてはいなかった。結婚した当時は愛しあっていたのだが、愛がさめると放っておいてしまった。それが、今になってとても無慈悲なことだとわかった。
どうして人間は、愚かなものでしかないのだろうか。妻もまた、一人の心をもった人間であることに私はずっと気づかなかった。だがこれほど過ちを犯してしまった後で、それをわかるのはなんと痛ましいことか。
やはり私の生は、妻と共にあるのかもしれない。
2月16日
エレンが消えた。地下室からいなくなったのだ。これは危険なことだった。まるで、獣を野に放ったようなものだからだ。
私は恐ろしい。エレン、あの狂人の憎悪にさらされることが恐ろしい。だが、結局自分の蒔いた種なのだ。私はどんな結果になっても、それを受け止めよう。
それが妻と死によって引き裂かれることになっても、だ。』
「あなたは小匣が汚されていることを知っていたんですか」
「ああ。だから妙なことになっているなと思った。だが、それがどんな意味を持っているかまでは分からなかった」
「でしたら、グロスタールかアピアスに言えばよかったんじゃありませんか」
「いや、もしそんなことを言っていたらグロスタールに殺されるよ。彼はどうやら、あまり兄のというかワシュテク家の暗部について触れられたくないらしい」
「それで、あなたはこの一連の殺人はエレンが起こしたものだと思っているのですか」
「そうだ。もし私の近くにいる人間が魔術を使ったらそうとわかるからな。それに、彼の研究室の棚には<黄の印>の捺された書があった。あれで学んだんだろう。ベルを使う魔術もハスターと名状しがたき約束を結んだ者どもが扱うものだし、バイアクヘーの使役こそハスターと最もつながりの深い魔術だ」
「じゃあさっそくエレンを見つけ出さなくては」
「待て、彼女はまだまったくこちら側に尻尾をつかませていないんだぞ。手がかりがなくては私といえども彼女を捕らえるのは無理だ。しかし、彼女はこの夜の間じゅうに行動を起こすだろう」
「行動?」
「ここには九つのモノリスの代わりに楔状に位置する九つの山に囲まれている。また今の季節天上にはアルデバランがある。そして、いまや強大な魔力が手に入った。ハスターの招来には最も好都合な状況なのだぞ。彼女はこの地球上にハスターを降臨させ、ありとあらゆるものを破壊してしまおうと考えるだろう。少なくともこの地域一帯を」
「しかしそれはあまりにも残酷で、無意味ではありませんか?」
「だが彼女はもうこのようにしか考えられないのだ。狂人だからな。だからこそ、私は彼女がここではスターの招来をすると確信しているのだ。そのときに彼女を襲えばいい。狡猾な敵がこちらから姿を晒してくれるのだ。こんなにいい機会はない」
「それで、どうしますか」
「アピアスにこのことを話そう。彼ならグロスタールより私の説得に応じてくれそうだ」
われわれは部屋を出て、アピアスの寝室へと向かった。するとすぐにアピアス本人と廊下で遭遇した。
「何をしているんですか、こんな夜中に」
「フォーギスとイリーナの命を奪い、小匣を盗んだ人間の正体がわかりました。話を聞いてくれますか」
アピアスは驚愕した顔で頷き、彼の寝室にわれわれを導きいれた。
「エレン、という名前について知っていますか?」
「たしか、父の愛人だったと言う噂の女性だったと思う。私がまだ小さい頃だからあまりよく覚えていないが、若くして不幸な事故で死んだとか」
「お父上は、魔術の研究をしていらした。そして、彼女を蘇生しようとしたのです。それを知っていましたか」
「いいや、そんな話ははじめてだ。それで?」
「エレンは蘇りました。しかし、そのとき既に蘇生の苦痛により発狂していたのです。彼女はあの地下室に閉じ込められていましたが、まもなく脱出し、行方がわかりません。お父上とお母上の死は、どんなものでしたか?」
「それがおそろしいもので、ふたりとも同じ瞬間に心臓発作で息絶えていたのだ。真夜中のことだったので、他の者が気づいたのは朝になってからのことだが」
「では、それにもエレンが関わっているかもしれませんな。とにかく、彼女は今日ある恐ろしい魔術の儀式を、ここで行います。私は出来うる限りそれを阻みますが、協力を願いたいのです」
「それは、つまり?」
「具体的には、あたり一帯を燃やすことです。魔術的な存在といえども、炎には比較的弱い。油を庭にまくのです。最悪の場合それに火をつけて逃げる以外、通常の人間に出来ることはありません」
「しかし、なぜ彼女は小匣を盗んだのだ?」
「それです。私も以前拝見した時から気にかかっていたのですが、あれは聖なる力を持っているわけではないのです。お父上によってそれは汚され、暗い魔術によって使用されうるものと化していました。その力を使って、彼女は魔術を行おうとしているのです」
「そんなことがあったのなら、言ってくれればよかったのだ!」
「ええ、ですがそのとき私はグロスタール殿との契約のみを履行すればよかったのです。小匣が汚れていようがいまいが、私にとっては重要ではありませんでした」
「彼とどんな契約を交わしたのだ?」
「小匣を盗む契約です。ですが、それはもう実行不可能となりました。エレンの手から小匣を奪うのに、破壊すること以外の方法はおそらく出来ますまい」
「やはり、叔父はあれを狙っていたのか。しかし、そんなことになるとは結果的にみれば気味のいい話だ。さぞや悔しがることだろう」
「さあ、それはわかりませんね。ところで、あなたはあの小匣の周りになにか結界の様なものを張られてはいませんでしたか?」
「いや、とにかくあの部屋からは滅多なことでは出してはいけないと教えられてきた」
「なるほど、ありがとうございます。だから彼女はグロスタール殿がこちらに来た今日を絶好の機会として、行動を起こしたのでしょうね」
アレクセイの顔がさっと変わった。いきなり部屋から飛び出して階段を駆け下り、外に出た。私も必死でその後を追った。
館の庭を走り抜けると、地下室のあったところの近くに人影があった。髪の長い、ほっそりとした女性であった。