象牙の小函
女性は、一心不乱になにか呪文のようなものを唱えていたが、私たちの気配を察したのか手に持った小匣を後手に隠してゆっくりと振り返った。
「もう遅い。まもなく神がここにやってくるでしょう」
女性はぞっとするような喜悦をはらんだ声でそう言うと、にっと笑った。黒い丈なす髪に縁取られた小さな顔は、青白く冷たく美しかった。だが、目はまるで青い炎のような不健康な輝きを宿し、爛々と光っていた。
「あなたがエレン殿ですね?」アレクセイがこの状況としてはきわめて紳士的にたずねた。
「ええ」ふと、彼女の声が落ち着きを取り戻した。
「恐縮ながら、事ここにいたるまでの経緯というものを説明していただけませんでしょうか。あなたがアピアス殿のお父上の愛人であり、彼の手によって蘇生されたのちその地下室から脱出したところまでは私も知っているのですが」
私は、そんな悠長な質問に彼女が答えてくれるはずがないと思ったが、意外にも彼女は頷いた。
「あの方は、私をその手で地獄に突き落としたあと、私を捨てました」彼女の声は悲しげな、美しい声だったが、恐ろしいまでの憎悪と、たぶん愛情としか表現することの出来ないなにかがその裏に潜んでいた。彼女は続けた。
「私は蘇生したてで混乱していたのですが……あの方の愛が、もう私にはないことくらいわかりました。彼は再び妻を愛したのです。私を捨てて……だから二人を殺しました。ですが死にゆくときも、あの方は妻とかたく抱きあって、かすかに微笑んでいました。これほどつらいことはありませんでした。冥界から呼び戻されることなど、これにくらべたらほんのささやかなものです」
「そして二人を殺しても気持ちが収まらなかったから、このようなことを?」
「私はワシュテク家が憎い。あの男だけでなく、それと関わりのあるものすべてを殺さなければ心が収まらない」彼女は急にしわがれた声になって呟いた。
「なぜです?」
「私はまだあの方を愛しています。たとえ狂人、怪物と罵られようと……。しかし、もうあの方はいません。ですからこの不条理な世界にすこしでも痛手を与えたいのです。疼いてやまぬ私の心の償いとして」
「しかし、それはあまりにも理不尽です。関係のない人に罪はありません」私は思わず叫んでしまった。
「そうです。理不尽なことです。人の心など、どうにも出来ぬものですのに……ああ、己の浅ましさが恥ずかしい。しかし、こうするしかありませんでした」
「ふむ。それで、グロスタール殿が小匣を結界から持ち出させるという絶好の機会を利用して、復讐を開始したのですね」
「そうです。小匣があの部屋にある限り、私には手出しが出来ませんでした。もっとも、そのために小匣の異変も他人に気づかれませんでしたが。ハスターと取引をして、通常の生物のように食べたり眠ったりしなくてよい体となった私には、むしろそれは好都合でした。時間だけは私はたくさんありましたから。――しかし、グロスタールは愚かな男でした。小匣のことも私のことも、知っていたのにこのようなことを起こしてしまったのですから」
「おそらくグロスタール殿は、それがわかっていたからこそ
小匣を破壊しようとしたのではありませんか。しかし、それが裏目に出てしまった。ときに、あの時バイアクヘーを地下室に使わしたのはなぜです?」
「地下室を破壊して、私について書かれたあの方の手記や魔術書を他人に読まれないようにしようと思ったのです。それに、そうすれば私ではなくあの怪物が自発的にフォーギスを殺して小匣を奪ったように思われるでしょうから。
私にはもう時間がありません。あなた方のような他人を巻き込んでしまって心苦しいのですが、どうか不幸な星の巡りであったとお思いください。」
そのとき、何事かが起こっているのを察した傭兵たちが駆け寄ってきた。彼らはエレンのほうに走りよると、ある地点でみな低く呻いてくたくたと倒れてしまった。
「<シュド=メルの赤き印>だ。遠くから弓かなにかで射らないといけないな」アレクセイが早口で私に言った。
エレンは輝くように喜悦した顔であの小匣を天に差しあげて呪文を唱えると、大気が一変してなにかが空からやってくる気配がしてきた。
アレクセイは私に、空を絶対に見上げるなと言った。私は上空で何が起きているのか知りたくて気がおかしくなりそうだったが、ずっと地面ばかりを見て耐えていた。
なにかがやってくる気配はだんだんと強烈なものになってきた。なにか嘆き声のようなものが聞こえてきて、傭兵たちは顔を上げた。
彼らはいっせいに恐怖の叫び声を上げた。みなおびえてうずくまり、戦う気力すら残っていないらしかった。いったい、上空の何にそう恐怖したのだろうか。私は恐ろしくて立っているのがやっとだった。
アレクセイは、その間傭兵たちから弓を拝借し、つがえた矢を小匣のほうに向けていた。
彼が矢を放つと、矢はきっかり小匣に命中した。凄まじい音とともにそれは壊れ、不思議にも大量の血しぶきが起こった。まるで小匣のなかに大量の血が収められていたようだった。そして小匣が破壊されたと同時に、上空の圧迫感はふっと消えてなくなり、エレンの呪文も途絶えた。
「なんてことを!」
エレンの声は絶望を通り越し、悲鳴のようだった。アレクセイが二つ目の矢を構えた。
すると、エレンの身体に奇妙な変化が起こった。彼女の体は徐々に、うろこの生えたようなものに変わりつつあった。
「まずい。彼女はハスターの憑依体になりつつある」アレクセイがそう呟いた。
われわれが恐怖に魅せられた目で見守っているうちに、彼女の姿は血も凍るような悲鳴とともに緑灰色の人体の膨らんだような醜悪な模倣になった。目はもはや鱗に覆われた厚い肉に隠れて見えなくなり、その身体には骨というものが見当たらなかった。
変身が終わったとたん、それはわれわれのほうに向かって近づいてきた。アレクセイは私の腕を掴んで全速力で逃げ出した。
「アピアス! 火をつけてくれ。われわれの手には負えない怪物が現れた!」
彼はアピアスにそう怒鳴った。アピアスはわかった、と叫び返して召使たちに持たせていた油を広く撒かせ、火をつけ始めた。しかし、火はなかなか燃え広がらず、アピアスはもっとたくさんの油を召使たちに持ってこさせた。私がふと後ろを振り向くと、ひとつの人馬が館から街の方に逃げるのが見えた。それはグロスタールだった。
そうこうしている間に、まだその場にうずくまっていた傭兵たちが次々に怪物の触腕に巻き込まれ、苦痛の悲鳴をあげながら死んでいった。冬だからこそ枯れ草で覆われた地面は燃えやすいが、この庭を炎で包むのには油が足りなかった。
召使たちが館から油壺を持ってきたので、アピアスらはもっと怪物に近いところで油を撒こうとした。アレクセイは、近づきすぎると一瞬で死ぬぞ、油が尽きたら出来るだけ遠くに逃げろと怒鳴った。
多くの召使らが手持ちの油をすべて使い果たすと、一目散に逃げていった。だが、アピアスは戻ってこなかった。アレクセイは仕方ない、といった顔でアピアスを炎のなかに探したが、なかなか見つからなかった。
「アピアス!」