La Phrase
恥ずかしくて恥ずかしくて、今までヤツがこちらに視線を向けていた事に気付かなかった。
きっと、今鏡に向かえば、真っ赤な顔で泣き腫らしている自分が見れた筈だ。
逃げ出したかったけど、逃げ出せなかった。
沸騰した頭の中でこんな事を考えている自分が可笑しかった。
時間がどれくらい経ったのかは分からない。
彼の口から溜息が漏れた。
「お前、阿保ちゃうん?」
あの日以来、まともに声を聞けた瞬間だった。
「最初に拒絶の態度を取ったのは俺やない。お前や」
いつか感じた通り、ヤツの発音は関西方面のものであった。
だが、その事を考えたのはほんの一瞬で、次の瞬間には体から言葉を発していた。
「違う!」
「いや、違わない。俺が最初にお前に会うた時、お前は俺に何の関心もなさそうな態度を取ったやないか」
静かな目だった。
アタシの心を探るような透明な瞳。
「だから俺も同じ態度を取ったんや。お前が俺を嫌いなら、それでもええと思った」
少しだけ怒りを含んだ声がアタシの耳に響く。
「やけど、お前は自分で何もかんも勘違いしとる。自分で自分を過大評価しとる。心の中で『ちっぽけな人間』やと自分を否定して、世の中から逃げとるだけや」
「違う! アタシは逃げてなんかない!」
溜まらなくなって目を閉じて耳を塞いだ。
何も聞きたくない。
何も見たくない。
まるで子供のようだった。
「いいや。お前の生き方はただ逃げとるだけや。全部が全部に理由をつけて、そこから目を逸らしとるだけや。何も見ようともせん。何も聞こうともせんお前に、他人の事を批判する資格はない」
「違う! 違う! そんなんじゃない!」
もう自分が何を言ってるのかも分からなかった。
ただヤツの――速水の言葉だけが、体中で暴れまくっていた。
冷たい針が全身に突き刺さったみたいに、苦しくて、息が出来ない。
こんな風に言葉をぶつけられたのは初めてで、どうすればいのかずっと考えていた。
――いや、違う。
どう逃げればいいかを、だ。
アタシは確かに逃げている。
こうやって、自分を取り巻く全てから。
でも、こんな形でこんなヤツから聞きたくなかった。
アタシはやっぱり最悪な人間だ。
そう思った瞬間、体が動き出していた。
外へと向かって。
「玲!」
刹那、名前を呼ばれた気がしたけど、アタシは後ろも振り返らず走り去った。
ヤツから逃げるために。
……自分から目を逸らすために。
3.Access
学校帰りすぐに出てきてしまったせいか、駅は学生やらサラリーマンやらで溢れかえっていた。
手持ちのお金はたったの三百円。
鞄ごと置いてきてしまったので、定期も携帯も持ってない。
人込みの中を歩いていると、速水に言われた事を思い出してしまう。
アタシが自分を過大評価していると言ったアイツ。
全てのものから逃げていると言った。
周りから目を逸らしているとも。
そのどれもが本当だ。
アタシは自分で自分の事を「つまんない人間」だと思っていたけど、そう思ってただけで、ただ不幸なフリをして、全てを世の中のせいにすれば全部楽だったから。
怖かったのだ。
自分以外の「誰か」と向き合う事に。
大人になって「社会」に出て行く事に。
いつも不安だった。
背中を丸めて生きていけば何も悪い事は起きない、と無意識に思っていた。
でも、そんな保障はどこにもない。
今の状態がいい証拠。
行く所も行く当ても無く彷徨っていた。
アタシが「畏れ」を抱いた「他人」の間を。
辺りが夕暮れに包まれた頃、アタシは駅から離れた所にいた。
何となく歩を進めていただけなのに、こんな場所へ来てしまうなんて。
そこは父さんとよく行った土手だった。
結局、アタシもこうやって過去にすがりついている。
思い出を引きずっている。
心の奥底で寂しく泣いていたんだ。
その時、ふと視界の隅に何かが移った。
目を凝らして見てみるとそれは人で、坂の途中に腰掛け、何かをずっと見ている。
かと思うといきなり立ち上がり、手の中にあったそれを目の前に持ってきた。
(……カメラ……?)
人気のない場所で、一人真剣な眼差しでカメラのファインダーを覗く青年に、アタシは少しばかりの興味を覚えた。
身にまとう雰囲気がアイツに似ている気がして。
そうやってずっと見ていたせいか、彼はアタシの視線に気付き、こちらへ顔を向けた。
しまった、と思った時にはもう遅くて、
「やあ、こんにちは」
にっこりと親しみのある笑顔で微笑まれ、アタシも思わず。
「……こんにちわ」
と、返していた。
そしてアタシがその場でじっとしていると、彼の方から近寄ってきて、
「ここ、座っていい?」
と、答える前に座られていた。
仕方なく自分も少し離れた所に腰を下ろす。
だけど彼はただ座っただけで、それ以上は何の話もしなかった。
顔は真っ直ぐ沈み行こうとする太陽の稜線。
大事そうに抱えているカメラに視線を向け、アタシは珍しく自分から話しかけていた。
「写真、お好きなんですか?」
「え?」
声をかけられたのがそんなに意外だったのか、彼は一瞬だけ目を丸くした。
「いえ。カメラを持ってらっしゃるんで」
「ああ。うん、そうだよ。趣味みたいなものかな? 別にプロになりたいわけじゃなくて、ただその一瞬の風景を何かに焼き付けておきたかったんだ。……絵じゃそういうのは出来ないから」
そう言ってうっすらと微笑み、彼はカメラを撫ではじめた。
「あ。ごめん、変な事言って」
「いえ。構いません。最初に話しかけたのはアタシだし」
「ううん。こちらこそ。隣に座っておきながら変なヤツだと思ったでしょ?」
首を傾げる仕草が女の子っぽくて、アタシはちょっとだけ微笑み返した。
「いいえ、別に」
自分でも不思議なくらい自然に笑う事が出来た。
「そう。良かった」
目を細めてにっこりと笑う彼は、まるでアイツとは違ってた。
柔らかい穏やかな人。
始めて会った人間に、こんな印象を抱いたのは今まで一度もなかった。
(こういう人もいるんだな……)
傍にいるだけで、心が落ち着く人。
だけどどうしてだろう。
アタシの心の中に、アイツの顔がふと浮かんでしまったのは。
「君は?」
「え?」
「君は何か自分が好きだと思えるものがある?」
尋ねられた瞬間、固まってしまう。
……そんなものはないからだ。
今まで何かに夢中になった事もなければ、興味を持った事もない。
逆に、何であんなに一つの物事に対し、笑って話せる事が出来るんだろうと思っていた。
だけど今は、失敗する事に恐れて、何も始めようとしなかった事に気付かされた。
ほんの数時間前の事を思い出し、アタシは下唇を噛み締めた。
そんなアタシの様子に気付いたのか気付かなかったのかは分からないが、彼はファインダーごしにアタシを覗き込み、
「今からでも遅くはないよ」
「え?」
と、掛けられた言葉に思わず横を向いた途端、
『パシャリ』
という音がした。
「……あ」
ポカン、と間抜けに口を開けたアタシに、彼は初めに見せたあの笑顔で、