里美ハチ犬伝
◆第四話 追いかけっこ
掛布たちが教室を飛び出すと、三年一組の教室での異様な騒がしさに気付き、様子を伺いに来ていた隣の教室―三年二組―の担任・堀尾先生と遭遇した。
タラコ唇とメタボリックのぽっこりとお腹が出ているのがトレードマークの堀尾先生は、授業中にも関わらず廊下を駆けていく犬と生徒たちを見て思わず、タラコ唇を震わせる。
「な、なんだ。あの犬は…てっ……コラ! お前達、まだ授業中だぞ!」
掛布たちは足を止めず、
「だって、二宮先生があの犬を捕まえろ、って!」
すれ違い様に、とっさに嘘を吐く。
「おっ、そうなの……」
何となく納得しかけてしまうもの、続けざまに通り過ぎて行く生徒たちを見て、学校の常識と先生の使命を思い返す。
そもそも何故ここに犬が居るのかという疑問を訊こうとしたが、生徒たちは遠ざかっていく。
「いやいや、どういうことだ。どういうことですか二宮先生。二宮先生!」
代わりにクラスの責任者に事情を訊こうと、今度はメタボリックの腹を震わせ、三年一組の教室に入っていく。
それはさて置き、犬の後を必死になって追いかける掛布。
その後を追うクラスメート達と里美。
「待ちやがれ!」
掛布の呼び止めで止まるなら、お手でしっこはかけられはしない。
そのしっこをかけられた掛布は、ドタバタとマラカスを振るように手足を動かし、走り行く。
しっこをかけられた手で一発叩いてやらないと、掛布の怒りは収まらないようだ。
しかし犬との距離は、徐々に広がっていった。
やがてハァハァと息が切れかけ始めると、後方の生徒たちに次々と抜かれていく。
そして遅れて追いかけてきた一番後ろにいた、里美に抜かれる頃には掛布の足はフラフラとなり、
「ぜぇ…ハァ…ぜぇ、オエ……」
あえなくリタイアとなった。
「どれだけ体力が無いのよ」と、里美は内心でツッコミを入れつつも、掛布を無視して犬を追いかける。
掛布の恨みとは違って、里美の目的は――
「今度は何としてでも触るからねー!」
近づこうとして離れられた、朝での光景を思い返す。
そうこうしていると一足早く、犬は廊下の端に辿り着くと身体を傾け曲がり、スピードを落とさず階段を駆け昇り行く。
追いかける生徒たちは、一段飛ばしで駆け昇っていくものの、犬との距離は一向に縮まらない。
ちなみに犬の走る速さは、時速約五十km(キロメートル)。
とあるオリンピックの金メダリストの陸上選手の時速が約四十kmであり、犬が如何に速いか分かるだろう。
その犬の脚力もさる事ながら、体力も群を抜いていた。
追いかけるクラスメート達も、先ほどの掛布と同様に息も絶え絶えとなり、次々とリタイアしていった。
だが、まだ廊下に足音が響き渡る。
犬は器用に走りながら振り返ると、まだ後を追いかけている人物を確認した。
里美だった。
追いかけたクラスメート達の中で唯一の女子にも関わらず、ヘバる事なく犬の速さについていく。
実は里美は、夏の運動会の徒競走や冬の校内マラソンなどで上位に入るほどの運動能力の持ち主。
去年の運動会で六年生の一番速い生徒と接戦を演じた徒競走は、今では伝説となっているのであった。
やがて三階の廊下の端に行き着くと、犬はスピードを緩めずに近くにある階段を駆け降りた。
それを見て里美は、
「むむむ、なんの! とう!」
秘技“十段降り”で、ピョンと軽やかにジャンプ降り!
だが着地衝撃は激しく、体のバランスが崩れ、階段の踊場で着地が失敗しそうになるも、
「おっとと、と!」
とっさに両手を壁に付け、自分の体を支え踏ん張って、転ぶことを回避した。
そして、すぐさまに壁に付いた両手を勢い良く押して、反動をつけ加速させると、残りの階段も再び“十段降り”……は流石に危険だと判断し、“五段降り”を繰り出して、残りの階段を二度に分けて飛び降りた。
そんなこんなで、里美は犬との距離を若干縮めることに成功した。
なお、この技は運動神経抜群の里美だからこそ可能な技なので、どんな人間でも真似をすると大変危険ですので絶対にしないように。
さて大抵の小学校の廊下の両端には昇降階段が築かれているものであり、里美が通う小学校も例外に漏れない。
校舎の構造はコの字形となっており、里美たちの教室(三年一組)が在るのは北校舎の二階。
先ほど三階から降りて廊下を走っているという事は……。
「あ、里美ちゃん……」
宏子は教室の前の廊下を走り抜ける犬と里美に気付いた。
つまり、里美と犬はグルっと二階三階間を一周したことになる。
生徒たちは犬と里美の追いかけっこ観戦に夢中となっていたが、二宮先生と堀尾先生は、そっちのけで何やら話し合っていた。
明太子のようなタラコ唇をこれでもかと激しく動かす堀尾先生とは違って、重く唇を動かす二宮先生。
「二宮先生、何やっているんですか! 犬が恐いとか、大の大人が何を言っているんですか!」
「……堀尾先生は、人面犬というものをご存知ですか?」
「人面犬? ああ、昔そんな怪談めいたものが広まりましたね。それが?」
「実は私……小学生の時に“人面犬”を見たことがあるんです」
「えっ?」
突然のぶっちゃけ話しに、場の空気が重く凍り付く。
「あれは放課後の黄昏時。夕日が見事なオレンジ色でしてね。
それをバックに“ヤツ”がいたんです。
犬の体に、頭がバーコードハゲの五十歳くらいのおっさん……。
もうその姿で恐怖で身体が竦んでしまいましてね。
私に声をかけてきたんですよ。
“お嬢ちゃん、パンツ見せてな”ですよ。
もう三日三晩、その人面犬が出る夢を見てしまうぐらい、うなされてしまいましたね。
あんなものを生で見て、声を聞いて、しかも“お嬢ちゃん、パンツ見せてな”って。
いたいけな小学生にとってはとんでもない恐怖ですよ。
事件ですよ。
拷問ですよ。
それ以来、犬がですね。私にとって恐怖の大王となったんですよ……ははっ……」
ブツブツと過去のトラウマを語る二宮先生の瞳は生気を失い、乾いた笑いを溢していた。
「あ、いや……その、二宮先生。お、落ち着いて……」
「そういえば、あの人面犬のおっさんの顔……思い出したくないですけど、よくよく思い出せば堀尾先生に似ているような……」
「ちょっと! 何を言っているんですか、二宮先生! 失礼ですよ!」
そんな先生たちの話しをよそに、廊下では熱いデッドヒートが続いていた。
犬との距離は先ほどの一周で僅かに縮めたものの、里美はある懸念事項が思い浮かんだ。学校特有の作り―廊下の両端に階段がある―によって、“行き止まり”が存在しないのだ。
つまり袋小路に追い詰めることは出来ず、このままでは里美と犬、どちらかの体力が尽きるまで、この追いかけっこは続くことになる。
そうこうしている内に、犬が再び廊下の端に辿り着き階段を昇ろうとしたが、階段の途中でバテている生徒の気付くと方向転換をした。
降り階段には行かず、北校舎と南校舎を繋ぐ“渡り廊下”へと飛び出た。
「しめた!」