里美ハチ犬伝
◆第二話 宏子と渚、そして掛布
里美は余裕を持って、チャイムが鳴る五分前に学校へ到着することができた。
「これなら、もうちょっとあのワンちゃんと居れば良かったかな」
走ったわりに息一つ切れていないのは、若さと健康的な身体を持っている証しでもあった。
廊下を走るような速さで歩く。
つまり走歩きで、自分の教室…三年一組に入ると、既に大半の生徒が来ており、ワイワイガヤガヤと賑やかだった。
「おはよー」
と、教室にいる皆に朝の挨拶をしつつ、早足で自分の席へと向かう里美。
そして席に着くと隣の席に座っていた、短いツインテールの女子が声をかけてきた。
「里美ちゃん、おはよー。今日は、いつもより遅かったね。どうしたの?」
彼女の名前は小林宏子。
活発な里美とは対照的に、もの静かで素朴な性格だけど、里美と仲の良い友達の一人。
「おはよー、ヒロちゃん。いや〜、それがね。変で面白い犬がいてね。それを見てたら、遅くなっちゃった」
「変で面白い犬?」
「うん、そうなの! 私が近づこうとするとね、逃げるの」
「……えっ?」
「私がね、一歩近づこうとしたら、犬の方も一歩下がるというか、逃げるの」
「それって……普通のことなんじゃないの?」
宏子は自分が思ったことを素直に口にした。
「えっ」と、意外な感じで驚く里美。
「私のところの近所の犬も、私が近づいたら逃げちゃうんだよ。可愛いチワワなんだけど、ナデナデしたいのにな」
「へ〜そうなの……。ああ、それに私が一歩下がると、その犬が私に一歩近づくんだよ」
「それって……」
宏子は、その光景を頭の中でイメージしてみたが、あまりにも馬鹿馬鹿しいシーンだったために思わず噴き出してしまう。
突然の笑いに里美は「なに?」と訊くと、
「え…いや、ちょっと……」
今度は苦笑いで返した。
そんな二人の会話に釣られて、里美の後ろの席に座っている男子が声をかけてきた。
「なんの話しをしてるんだ、藤井?」
「渚くん。それがね、面白い犬を見たの」
「面白い犬? どんな?」
里美は先ほど宏子にした話を、スポーツ刈りが似合う少年―小久保渚―にもするも、渚は頭を掻きながら、
「それ、普通じゃないか?」
素っ気無く感想を漏らした。
「だよね」と、渚の意見に賛同する宏子。
「あれ?」
里美は「説明は間違っていないのに、どうして伝わらないのかな?」と、首を傾げる。
「近づいたら逃げるなんて、野良犬とかなら当然だろ。俺もそういうことはあったよ」
「逃げるといっても……う〜ん……」
どうすれば、あの状況を明確に伝えられるのかと言葉を探すが、どうしても見つからず言葉に詰まる里美。
正しい説明をするにも、勉強は大切だと実感させられる瞬間であった。
「面白い犬って言うから、てっきり人面犬なんかと思ったよ」
「ジンメンケン?」
聞きなれぬ用語に、思わず聞き返す里美。
「あ、知らないの? 犬の身体なのに、顔が人間のおっ……」
渚の話の途中にも関わらず、内容を察知した宏子は一瞬で青ざめ、
「いや〜〜〜〜!」
と、悲鳴に似た声を上げ、両耳を塞いだ。
突然の叫び声に、何事かと里美と渚以外の生徒達も宏子に注目する。
「ああ。ヒロちゃん、恐い話が苦手だからね」
「恐いか? 人間の顔が付いている犬なんて、面白いと思んだけど……」
しかし、当の宏子は、
「聞こえない! 聞こえない! あー! あー!」
渚の声が聞こえないように大きな声を出し、呪文のように繰り返していた。
「ヒロちゃんには、恐いみたいだね」
そうこうしていると、チャイムが鳴り響く。
「あ、早く準備しないと」
里美は、まだ教科書などを出していない事に気づくと、慌てながらカラフルでスタイリッシュな補助カバンから教科書や筆箱などの勉強道具を取り出し、少々粗雑に机の中に仕舞い込んだ。
そして、補助カバンは机の横にかけ、本来の役目を持たせて貰っていないランドセルを、教室の後ろに設置されている、通称“物置ボックス”へと置きに行こうと席を立つと、未だに両耳を抑え、呪文を唱えている宏子の姿が目に映った。
「ヒロちゃん……。ほら、もう恐い話はしてないよ」
ポンっと宏子の肩を軽く叩くと、大きく肩をビクっと震わし、ゆっくりと里美の方を見る。
「え、あ……」
平静を取り戻すと、先ほど青くなっていた顔に赤が浮かぶ。
そんな恥ずかしさで縮こまる宏子を見て、里美は愉快そうに明るく笑った。
すると、大人の女性が教室に入ってきた。
「あ、二宮先生だ」
里美の担任である二宮先生は、教師歴七年。
ギリギリ二十代の二十九歳であるが、古臭ささを感じさせる丸メガネをかけており、少しパーマがかかったセミショートの髪型が、おばさんっぽさを漂わせていた。
里美は、そそくさとランドセルを置きに行く。
他のクラスメート達は全員着席を終えているので、急かされているような感じがして、出来るだけ早くランドセルを置き、席に戻った。
そして、里美が着席すると同時に学級委員長が、
「起立!」
と号令をかけると、一同は従い、おなじみの朝の挨拶が行われる。
「おはようございます!」
バラツキがあるものの大きな声が教室に響く。
「はい、おはようございます。それでは、出席を取ります。青木くん」
あ行から順々に苗字が呼ばれ、その苗字に該当する生徒は元気良く「はい」と返事していった。
そして、か行に入り、
「掛布くん……」
と苗字を呼ぶも、返事は返ってこない。
「掛布博和くんは……」
二宮先生は、一番後ろの空席となっている机を見ると、小さなため息を漏らした。
掛布の親御さんから何も連絡は無い。
という事は―――
「掛布くんは、また遅刻なのね……」
そう言うや、出席簿に遅刻マークを書こうとすると、廊下から勢い良く駆けてくる音が響き渡ってくる。
次の瞬間、教室の扉が開かれると同時に第一声、
「ギリギリ、セ〜フ!」
“自分は間に合った”とアピールのために、わざとらしく大げさに声を張り上げたのは、クセの強い天然パーマが印象的で、タレ目がちの少年であった。
少年は不敵な顔で、堂々と教室に入ってくる。
二宮先生は落ち着いた口調で、その少年に真実を告げる。
「バリバリアウトですよ。掛布くん」
「え、マジっすか? おかしいな……。俺の腹時計では、まだ八時二十五分ですよ」
「教室の時計を見なさい。今、何時ですか?」
時計の針は、八時三十八分を差していた。
たった八分だろうが、遅刻は遅刻。
こういった規則厳守は、子供の頃からしっかりと教えていかないと、自分に緩いグーたらな大人になってしまうものだ。
だが、そんなことは露知らずの掛布は言い返す。
「ていうか、これには訳があるんですよ、先生!」
「どんな訳ですか?」
眉間にシワを少し寄せる二宮先生。
だが、掛布はそんな微妙な変化に気付いておらず、訳を述べる。
「来る途中、川で溺れている犬がいて、その犬を助けていたんです」