里美ハチ犬伝
◆第七話 母と父
「ダメです」
里美は意気揚々と家に帰ると否や、ハチを抱きかかえ、スーパーマーケットでお菓子を買ってとおねだりするのと同じように「飼っていい?」と訊いたが、母親のたった一言で拒絶されたのである。
里美の母親―莉奈―は、里美よりも少し髪が短いショートボブで凛とした瞳、一目で里美と親子なのだと判断できる容姿をしている。
実年齢よりも若く見られることが自慢だが、最近はお腹周りが気になっていて、なんとかしないと考えてはいた。
「どうして、飼っちゃダメなの!」
里美の家は中古であるものの一軒家である。
動物を飼えないという縛りは無いのだが……。
「犬を飼ったら面倒で、ご近所さんの迷惑になるだけでしょう」
「ハチは、面白い犬で凄い犬なんだよ!」
既に犬に名前が付けられていることに、ため息を吐く莉奈。
「面白い? 凄い? どこが?」
どこからどう見ても、普通の白い犬にしか見えない。
「ハチはね、渡り廊下から飛んだり、木を登って私のカバンを取ってきてくれたんだよ」
我が娘ながら「なに言っているのかしら?」と、莉奈は首を傾げる。
「ちゃんと世話するから。ねっ!」
「ちゃんと世話をすると言っても、どうせ最初の内だけでしょう。そして面倒になって、飼わなきゃ良かったって後悔するでしょうに」
「後悔なんかしないから! 絶対に最後まで世話をするから! 飼ってもいいでしょう!」
「ダメです!」
里美が必死に嘆願しても“聞く耳持たず”だった。
「ウチには、もう犬がいるんだから、それでいいでしょう」
「え?」
藤井家の家族構成は、父と母、里美の三人家族。まだ、ハチは含まれていないはず。
「犬なんて、まだ飼っていないじゃん」
「パパのことよ」
「えっ! パパって……犬だったの?」
突然の告白に里美は困惑しつつ、父親の姿を思い浮かべた。
父親は、二本足の直立歩行が可能な人間の姿をしている。ヒゲは生えたりするが、犬耳や尻尾は生えてはいない。
「犬みたいじゃない、ウチのパパ。ゴロゴロしたり、ご飯を食べている時なんて、犬みたいでしょう」
その光景を思い浮かべたが、父親は父親だった。
「それにパパは戌年生まれだからね。パパで我慢しなさい」
パパ=犬と成す情報を与えてくれたが、
「それは……無理やりだよ、ママ……」
流石の里美も呆れた顔で返した。
「とにかく、ダメなものはダメなの!」
「ヤダヤダ! この犬が良いの! ハチが良いの!」
頑なな莉奈に里美は、今にも泣きそうに涙目を浮かべて、もはや最終奥義“駄々”をこねるしかなかった。
「いい加減にしなさい! ウチでは飼えないの! さっさとその犬を捨ててきなさい。捨ててくるまで、ご飯抜きよ!」
里美の瞳に涙が溢れる。
「もしウチで飼えなかったら、ハチ……保健所に連れていかれるんだよ!」
「ある意味。その犬にとって、そっちの方が幸せかも知れないわよ」
涙目の嘆願も効果は無く、莉奈はそっぽを向いて冷たく言い放った。
里美は聞く耳を持たない莉奈の耳に届くように、息を大きく吸い、渾身の力を引き出し、己の限界を超える大声で、
「「「ママのヴぁぁカぁぁぁぁぁーーーーーーーー!」」」
その怒鳴り声は、家が揺れ、近所にも聞こえ、莉奈の耳の鼓膜が破れかけるほどの威力だった。
そして里美は、ハチを連れて家を飛び出した。
***
「ママのバカ! 分からずや! デブ! 短気!」
自分の母親に対しての罵詈雑言を口にしながら、道を歩く里美。
そしてハチは、大人しく里美の隣を歩いていた。
母の文句は一旦止め、これからどうしようかと画策した。
「ヒロちゃんの家にお邪魔しようかな……。あ、でも。ヒロちゃんのお母さん、動物アレルギーとか言っていたよね……。ハチを連れていくのは、ダメだよね……」
頼りになる友の家に行くことはできず、足取りはより重くなる。
「ママのバカ! アホ! 冷血女! ママが保健所に行っちゃえばいいのに……」
再び母親の罵詈雑言を口にしつつ、何処に行く当ても無く歩き続ける。
ハチは、ただ黙って里美の隣を歩いていた。
***
「くっしゅん!」
その頃、くしゃみをした莉奈―母親―は、鼻をすすっていた。
「たくっ、犬を拾ってくるなんて、誰に似たのかしら……」
晩御飯の準備を終えて、居間で夕方のニュースを見ていた。
窓の外は完全に日は落ち、真っ暗になっていた。
小学三年生と言えども、こんな時間に外に出させたのは失敗だったかなと、感情に任せて言ってしまったことに反省していた。
迎えに行こうかなと思い、立ち上がると、
『犬の散歩でお手軽ダイエット!』
テレビから聴こえてきたナレーションにピクッと反応し、そのままテレビに目を向けた。
『ですから、犬の散歩をするだけで脂肪を燃焼させる有酸素運動となります。それにワンちゃんがいますと、散歩をしなければならないという“義務”が生じますので、否応が無く運動することになります』
『そうですね。専業主婦の方は、家でゴロゴロしがちになりますから、犬を飼うことで運動不足を解消しますよね』
『犬を飼っている知り合いで、体が太めの方はいません』
コメンテーターと専門家との会話中に、テレビ画面の下部に“効果は個人により差が出ます”というテロップが入る。
「そういえば、犬を飼っている山村さん所は、子供が三人いるのにスタイルは良いわよね」
莉奈は服を捲し上げ、お腹周りに付いた脂肪をプニっとつねった。
「何をしてるんだ?」
意識外からの呼びかけに莉奈は「あわわっ!」と吃驚して、心臓をバクバクさせながら背後を振り返った。
「あ、あら、アナタ。いつ帰ってきてたの? というか今日も早いのね」
そこにはネクタイをほどく、戌年生まれの里美の父親―朗―が立っていた。
莉奈よりも二歳年下ではあるが、壮年期の中頃でもあり、朗の顔に仕事疲れが滲んでいるのか、朗の方が年上に見られてしまうのである。
「ただいま。最近不景気だからな、外注が少なくなって仕事が減っているんだよ。たく、何が政権交代が最大の景気回復策だよ。一向に良くなりはしない……あれ、里美は? 部屋か?」
いつもだったら、真っ先に「お帰り」と出迎えてくれる愛娘の姿が無いことに気付いた。
「ああ、里美だったら……」
莉奈は、簡単に事情を話す。
「へー、犬をね。まぁ子供なら誰もが通る道だな、動物を拾ってくるのは。俺も小学生の時に拾ってきたからな。まぁ、俺の場合は猫だったけど」
「アナタに似たのね……」
「ん? 何が?」
「里美のことよ……」
外見は自分に似ているが、中身は父親に似たのねと頷く。
「しかし、捨ててきなさいか……」
そう呟くと、朗は自分の子供の頃を思い出し「ははっ」と一笑する。
「俺のお袋と同じことを言ってるよ」
「だ、だって……動物の飼うなんて、餌代はかかるし、散歩とか世話が大変じゃない」