ココロの距離
【3】-2
柊は、時々無神経すぎるぐらいに素直だ。その時も『それもそうか』と言って、翌日すぐ里佳にOKの返事をした(らしい)。それからの2年間、二人は特にケンカをすることもなく、見る限りではそれなりに仲良く付き合っている。
「あなたが頼られるのはわからなくはないわ。羽村くんにとっては一番身近にいる『優等生』なんだものね。彼は不真面目ってわけじゃないけど、優等生というほどでもないし――でもね」
そこで注文した飲み物が運ばれてきたので、会話はいったん途切れた。店員が再び離れていき、里佳が自分のアイスコーヒーを一口飲んでから、
「講義のノートとかはまだいいの。それよりも嫌なのは他のこと……彼が私とのことをあなたに相談したり、あなたが彼の世話を焼いたりすることなの。知ってるわよ、たまに掃除したり、ごはん作ったりしてること。試験中も1回あったでしょう」
その通りなので、奈央子は頷くしかない。
……それ以上に思い出されるのは、あの時、柊に半ば抱きつく格好になったことだ。偶然の結果には違いなかったが、翌日は少しばかり心穏やかではなかった。もっとも、柊の方は気にしていなかっただろうけど――離れるまでの間が変に長く感じたのも気のせい、こちらの考えすぎだ。奈央子自身が一瞬意識しすぎてしまったから、そう思っただけだ。
「沢辺さんが彼のことを好きでなかったとしても、同じことをたぶん言ってる。……だって、あなたは美人だし、認めたくないけどよくできた人だもの。わかるでしょ? そういう人に、彼に近づいてほしくないって気持ち」
まして、と里佳は勢い込んで続ける。
「あなたは羽村くんが好きなんだもの。そういう、料理とか掃除とか、彼に頼まれたから仕方なく……なんて思ってたとしても、心の底では嬉しくてやってるんだってわかるもの。……すごく、嫌なのよそういうの」
「――そうでしょうね」
奈央子は認めざるを得なかった。何もかも里佳の言う通りだったから。
今も変わらず、柊に頼られることは嬉しかった。その嬉しさに、幼なじみとしての特権意識が含まれていなかったとは言えない。
大学入学後は、講義や課題に関することはともかく、それ以外の柊のプライベートには近づかないようにすべきだと思い、できる限りそうしてきた……してきたつもりだった。
けれど、どうしてもと頼まれたりすると断りきれなかった。結局、先日の夕食も含めて5・6回、月に1度ぐらいの割合で、柊の家で何らかの家事をやっていた。柊がそういう方面にはものぐさ気味であることも知った上で。
わかった上でやっていたのだから、責められても文句は言えない。里佳は柊の「彼女」なのだから。
「自覚してるだろうから、これ以上は言わないでおくわ。今後、あなたが調子に乗って羽村くんに近づきすぎるのをやめてくれれば、それでいいのよ」
それじゃ、と里佳はアイスコーヒーの代金を置いて、席を立つ。彼女が店を出ていってから、奈央子はようやく、注文したハーブティーに口をつける。……すっかり、冷めてしまっていた。
『調子に乗って』――里佳が最後に言った言葉が、脳裏に焼き付いている。一番痛いところを突かれた気分だった。
実際、その通りだからだ。
幼なじみの立場と、柊の変わらない態度をいいことに、「世話を焼く」ことをやめていなかった――最低限でしか。里佳を尊重はするけれど、彼女がいないところでも完全にそうしていたわけでは、結果的にはなかった。
いくら理由をつけてみても、結局、奈央子自身がそうしたいからしていたのだ。それを他人に、しかも一番言われたくない相手に指摘されるのが、こんなにショックなことだとは知らなかった。
……考えれば考えるほど、自分がずるい人間だと思えてくる。そもそも、この大学に入ったこと自体が、最大のずるいことではなかったのか。
自分と彩乃しか知らないことだが、国立大学に落ちたのは不可抗力ではなかった。
二次試験で、解答用紙を全て白紙で出したのだ。
模試での偏差値は、余裕とは言えないまでも充分合格可能な数値で、センター試験の結果も決して悪くなかったから、何故落ちたのかと周囲には(特に両親や教師には)首を傾げられた。だが誰に聞かれても、「体調が悪くて満足に解けなかった」と言い逃れた。
本当の理由は、今の大学に行く可能性を高くしたかったからだ。国立二次試験の半月前にここの発表は済んでいて、奈央子も柊も合格が分かっていた。
本命の国立に受かれば、学費が安くて自宅から通える範囲内のそちらを優先せざるを得なくなる。けれど不合格ならば、受験する私立の中で一番偏差値が高いのはここだったから、選んでも変には思われないだろう。そう考えたのだ。
唯一の心配は、実家から一番遠い点を指摘されないか、ということだったけど……そこは意外にも追求されなかった。それどころか両親は、毎日片道2時間は大変だろうからと、一人暮らしの許可まで出してくれた。
安心はしたけれど、同時に申し訳なくも思った。奈央子の父は典型的な中小企業のサラリーマンで、私立大学の授業料を楽々払えるほどの高給取りとは言えなかったからだ。
今でも、感謝と申し訳なさは感じているけれど……柊と同じ大学に通えている嬉しさの方が大きくて、忘れてしまっている時も少なくない。