ココロの距離
【3】
10月初め。
前期試験後、1週間の試験休みが過ぎ、大学は後期の履修科目選択期間に入った。
選択とは言っても、語学などの基本教養科目、及び学部・学科ごとの専門科目は最初から決まっているので、純粋な意味で「選択」するのは自由選択科目のみとなる。
つまり最低限取得すべき単位数のうち、4分の1ほどは、どの学部・学科の講義を選択しても良いという扱いになっている。資格を取るための科目に割く学生がいれば、単なる穴埋めとして単位取得が楽な(と噂される)講義を選ぶ学生も当然存在する。
奈央子の場合、どうせ受けるなら興味を持てる科目がいいと考えるタイプだった。休み中に考えた結果、福祉学やコンピュータ系の科目などを選ぶ。
その中に西洋史概説が入っていたのは特に意図的ではない。日本史学科の柊にとっては専門科目であり、ゆえに同じ講義を受けることになるのを多少は意識してはいたが……高校時代から世界史は好きな科目だったし、英文学を読む上で知識として役立つ時があるかも、と考えたのが主な理由である。
その、選択期間の2日目。午後一番の3時限目、奈央子はドイツ語Bの講義を受けていた。
必修の語学は英語を含めた2種で、それぞれテキストを訳するのが中心のA講義と、内容の自由度が高いB講義に分かれている。奈央子、及び柊が属するクラスを担当する講師は前期と同人物で、ヒアリングを重視した講義を行っていた。
区切りの良いところで講師が終了を告げたのは、チャイムが鳴る5分前だった。数人が講師に質問しに行く中、他の学生はばらばらと教室の外へと向かう。
奈央子もテキストや筆記具をカバンに入れ、席を立つ。今日の午後の講義は今のドイツ語と、5時限目の専門科目だから、4時限目が空いている。時間つぶしに大学生協内の書籍売場へ行こうか、と考えながら教室を出ると、すぐ前の通路に、壁にもたれる格好で女子学生が1人立っているのに気づいた。
淡い黄色のカットソーと薄茶のロングスカートを着た彼女は、奈央子が中から出てくるのを認めて顔をこちらに向ける。ゆるくパーマのかかった髪が、肩の上でわずかに揺れた。
(あ――)
里佳だった。
思わず足を止めた奈央子の顔を、黙ったままじっと見つめる。その沈黙が居心地悪く、思い切ってこちらから口を開いた。
「……えっと、柊なら中にまだいるけど」
言うまでもない気はしたが、他に適当なことを思いつかなかった。社会学部生の彼女が文学部棟に来るなら、それぐらいしか理由がないだろうと思ったからでもあるが。
「知ってるわ」
案の定そう返された。でも今日は、と続ける。
「あなたに話があるの、沢辺さん」
「え?」
「時間ある?」
一瞬嘘を言うことも考えたが、結局は正直に4時限目が空いていると答える。それを聞いて里佳は、身振りでついて来るようにと促した。
思わず出てきた教室を振り返ったが、柊はまだ席を立たず、他の学生としゃべっている。
仕方なく奈央子は、里佳の後ろについて歩き出した。
しばらく歩き回った結果、学内の喫茶室に席の空きを見つけ、そこに入った。互いに注文を終えて店員が去ると、里佳はすぐ口火を切った。
「単刀直入に聞くわ。あなた、羽村くんのことどう思ってるの。……いいえ、聞くまでもないわよね。好きなんでしょう」
断定口調で言われ、すぐには返す言葉が出てこなかった。
なるべく、周囲には気取られないようにと振る舞ってきたつもりだが――里佳には気づかれているだろうとは思っていた。
そしていずれは、こうやって正面切って話をしなければならないだろうとも。今さら隠しても仕方ないと腹をくくり、奈央子は言った。
「そうね、望月さんの言う通りよ」
やっぱりね、という表情を里佳は浮かべた。
「だったら、言わなくても分かってるわよね……羽村くんに近づかないでほしいって」
「それは……」
「あなたたちが幼なじみなのは知ってる。彼が、あなたのことを頼りにしてるのも――私とのことだって、真っ先にあなたに相談するぐらいだものね」
確かにそうだった。
高2の夏、里佳に告白された日の夜、わざわざ部屋まで訪ねてきて柊は言ったのだ。『どうしたらいいと思う?』と。それまで女の子から告白された経験がなく、また付き合ったこともなかった彼としては、ともかく戸惑ってしまったらしい。
だがそんなふうに聞きながらも、柊はやけに嬉しそうだった。望月里佳が、柊の通う高校内では噂の「注目株の女子」だという話は何度か聞かされていた。同じく女子としては品定めっぽい言い方が気になったが、件の里佳が可愛らしくて魅力的なことは(写真を見たことがあったので)、奈央子も認めていた。
だから、『そんなに嬉しいんだったら付き合えば?』と答えたのだ。