ココロの距離
【2】-3
『……こないだノート借りた時、途中までしかチェックしてなかった』
しばらくの沈黙ののち、そう答えた柊に、奈央子は呆れた。
「――それこそ『マジ?』って聞きたいわね。貸す前に範囲教えたはずだけど」
『そうだっけ?』
「そうだっけ、じゃないでしょ……まったく。試験は明日の朝一なのよ、わかってんの」
『わかってるから電話してるんだろー。なあ、悪いけどもう1回貸してくれないか』
「今からー?」
『悪いっ、頼むよ奈央子、お願いします』
電話の向こうで、実際に手を合わせている柊の姿が見える気がした。子供の頃から何度となく耳にしている、彼定番の台詞だった。
……そして、奈央子が幼なじみの「お願い」に弱いのもまた、定番になっていた。相手に気取られないように、いろんな意味をこめたため息をつく。
自分自身にも呆れつつ、結局はこう言った。
「わかった。今からそっち行くから、ノートの準備しといて」
奈央子の住む女性専用マンションと、柊のアパートとは、最寄り駅で換算すると2つ分離れている。しかしどちらも駅から徒歩10分ほどの住宅街の中であり、加えて交通量の比較的多い国道に沿って行けば、自転車で20分程度の位置関係にあった。自宅からなら、わざわざ電車を使うより、自転車で直接行った方が手っ取り早い。
マンションの駐輪場に停めてある自転車を引き出し、ライトをつけて出発した。6時を過ぎるとさすがに空が暗くなりつつある。
信号であまり足止めされずにすんだからか、15分ちょっとで目的のアパートにたどり着いた。外階段の脇に自転車を停め、2階へと駆け上がる。
203号室のチャイムを押すと、ほとんど間を置かずにドアが開いた。中に入りかけるが、なぜか柊が動こうとしない。
不審に思って見上げると、柊がこちらをじっと見ていることに気づいた。数秒待ってみたが、状況は変わらない。
居心地の悪いものを感じて、半分わざと、いつもより強い口調で尋ねた。
「なんなの?」
その瞬間、柊がはっとしたように目を見開いた。次いで、まばたきを何度も繰り返す。
急に夢から覚めたような、そんな様子だった。
もう一度「なに?」と尋ねると、柊は視線をやや下方へと移した。
「……それ、何なんだ?」
指差された先、自分の手元を見ると、持ち帰ってきたスーパーの袋。勢い半分、なんとなくの予感半分で、自転車に積んできたのだったが、指摘されると少々恥ずかしくなる。
「買い物して帰ってきたところだったの。勢いで持ってきちゃったのよ……それより、ノートは?」
「あー、それがなあ、探してるんだけど見つからなくて」
「ええ? 何やってんのよもう」
スーパーの袋を台所スペースにひとまず置き、奥の部屋へ入る。ラックを調べると、テキスト類がまとめて入れられた段に、目的のノートは横向きにつっこまれていた。
「あるじゃない。どこ探してたのよ」
「あれ、おかしいな……」
などと呟いている柊は放っておいて、ノートに何ページ目までの訳が書かれているのか、急ぎ確認する。
「37ページまでね、じゃ38ページからの分コピーしてくるから――」
片膝をついた姿勢から立ち上がりつつ、振り向きかけた時、カバンのひもが肩からすべり落ち、肘の内側に引っかかった。急に移動した重みに反射神経がついていかず、奈央子は態勢のバランスを崩した。
「きゃ!?」
カバンに腕を引っぱられた拍子で、奈央子が突然ふらついて斜めに倒れかけた。
それが目の前だったものだから、反射的に前へ出て腕を伸ばす。
……受け止める直前、甘い匂いが鼻をかすめた。
「ご、ごめん。バランス崩しちゃって――」
奈央子が何か言っていたが、柊は半分も聞いていなかった。ただ一つの感情で頭がいっぱいだった。
ほとんど無意識に、奈央子の腕に添えた手に力をこめた時。
「――柊?」
戸惑うような呼びかけ。途端に、今の状況を把握するだけの冷静さが戻ってきた。抱きつく格好になっていた奈央子からさっと体を離す。
「あ――大丈夫か?」
「……うん、別に何ともない」
そう言って目をそらした奈央子の顔が、心なしか赤いように見えた。なにやら怒っているようにも見えるから、そのせいかも知れない。
自分の視線が、幼なじみの長い髪から胸元へと動くのに気づいて、慌てて顔をそむけた。さっきから何かおかしい……奈央子が訪ねてきた時からそうだ。
ドアを開け、彼女の姿を目にした瞬間、動けなくなった。急いで来たのか息を少し切らし、頬がやや紅潮した顔。こんなに美人だったろうか、とその時思った。
奈央子の不審げな声で我に返り、自分がどれだけ無遠慮に相手を見ていたかに気づいた。とっさにごまかしたが、ひどくバツが悪い気分だった。
今も同じだ。考えまいとしているのに、先ほどのことが脳裏から離れない――髪の甘い香りと感触、受け止めた体のやわらかさ。
抱きしめたくてたまらなかった。
「――っと、それじゃコピーしに行ってくるから。あ、晩ごはんどうせまだよね?」
「あ、そうだな、コンビニ行くんなら何か弁当でも買って」
「そんなことだろうと思った。コピー終わってから30分か40分待てるなら何か作るから。どうせ今晩の材料そこにあるし」
奈央子が差し示した方向には例のスーパーの袋。
軽い驚きとともにそれを見ているうちに、奈央子は玄関へと走っていた。ついて行こうとしたが、自転車があるからと奈央子は言いおき、素早く出ていった。
外階段を下りていく足音を聞くともなしに聞きながら、柊は考えた。
……やっぱり、今の自分はおかしい。どうしてこんなに焦ったような気分になるのか。
それも、20年近くの付き合いで、兄弟か親戚みたいな幼なじみに対して。
そう、奈央子は一番近くにいる、ほとんど家族のような存在だ。3歳上の姉よりも近しい女きょうだい、そういった感じの。
なのに、どうして今さら――知らない女に接したみたいに、心が落ち着かなくなるのか。
ましてや、抱きしめてみたいなどと思ったのか。
(……木下の話のせいだ、きっと)
木下が思わせぶりな話をするから、それが今日のことだったから変に意識してしまっただけだ。きっとそうだ。
一晩眠れば、気分も落ち着くだろう。柊はそう結論づけた。