ココロの距離
【8】
5時限目が終わって外に出ると、もう真っ暗だ。
12月になってから、日没の時間がさらに早くなったように感じる。実際、冬至までは少しずつ早くなっていくんだよな、と奈央子は思った。
あと2週間もすれば、年内の講義は終了し、冬期休暇期間に入る。今のところ、休暇中の課題提示はどの担当者からもされていないが、まだ油断はできない。英文学講読の講師はレポート好きだし、2月の後期試験に代わる課題を出す講義があるとしたら、冬期休暇明け提出になる場合が多いと噂されているからだ。
先ほどの英語音声学担当の助教授も、それらしきことを話のついでに口にしていた。もっとも、そうやって学生を脅して面白がる癖のある人物なので、信憑性がどれほどかはわからないが。
それでもやはり気にはなる。今も並んで歩きながら、彩乃はぶつぶつと呟いていた。
「ったくあのオヤジ、中途半端な言い方ばっかりして。結局、こっちを焦らせて自分が楽しんでるだけなんじゃないの」
半ば本気で怒っているらしい。その気持ちは奈央子もわかるので、苦笑しながらうなずいた。
「確かにそうかも、ってわりと本気で思っちゃうよね、あの人の言い方だと」
「そうそう。なんだろ、欲求不満? 指輪してないし、多分独身だよね。あの性格じゃ彼女もいないんじゃないかな。ね?」
「さあ、そこまではわからないけど」
最寄り駅へと歩く途中、赤信号に捕まった。青になるのを待つ間、たまたま会話が途切れる。
「……ねえ、ところでさ」
彩乃がふいに、真面目な口調でそう切り出した。たぶんあのことだな、と条件反射で予測をする。
「全然、連絡ないの? 羽村から」
「――うん」
「まだ何にも? もう2ヶ月近いじゃない」
10月下旬のあの日から、再び柊とは話をしていない。奈央子が柊を避けがちなのは前と同じだが、今度は柊の方も、こちらに接触してこずにいる状況だった。
大学祭には、彩乃のサークルのコンサートがあったし、初めての行事自体に興味もあったので、一応訪れてひと通りは見て回った。……柊のサークルの出店のことも覚えてはいたけど、やはり足を向けにくかった。しかしもらった割引券を無駄にしたら悪いかも、という思いもあって、遠くから柊がいないのを確認した上で、一度だけ行ってみた。
たまたま、券をくれた木下という学生が店番をしていて、割引以上のサービスをしてくれた。平たく言うと、タダで食べさせてもらった。
ちょうど交替の時間だとかで、そばにいた学生にエプロンを押し付け、空いてるなら少し一緒に回らないかと言ってきた。サービスへの義理を感じて、1時間だけは付き合った。だがその後の「次の週末、予定なかったら映画でも」という誘いには、謝りながら首を振った。
木下氏は見るからにがっかりした後、「彼氏いるの?」と尋ねた。奈央子は少し迷ってから、彼氏はいないけど好きな人はいる、と正直に答えた。肩を落として店に戻っていく木下氏の後ろ姿に、やはり最初から断った方が親切だったかもと後悔した。
正直、いまだにまるで「前向き」になれない自分がひどく腹立たしい。いっそ、申し込んできた誰かと付き合うことを考えられればいいのに、どうしてもそういうふうには割り切れなかった。好意を示してくれた相手に対して断るのは気の重いことだが、誠意のない態度を取るのはもっと失礼だ。その気もないのに良い顔をして交際することはできない。
そう考えるのは奈央子自身の主義でもあるが、やはり何よりも、柊への気持ちをふっきれていないからだ。わざわざ髪まで切ったにもかかわらず。
そのくせ、あの日の柊の告白を、受け入れられないでいる。
……あまりにも予想外で、取り乱すほど驚かされたのは確かだ。しかし彼が、あの状況であんな嘘を言うとは思っていない。彩乃からも『羽村は本気だよ』と念を押されている。なのにどうして、素直に信じることができないのだろう。
――本当は、自分で理由はわかっている。
中学時代に一度、恋愛対象として見てもらうことをあきらめてから、その決心をずっと忘れないようにしてきた。柊が里佳と付き合い始めてからは特に。好きでいることはやめずにいても、想いが成就する日は来ないから期待はするなと言い聞かせてきたのだ。そのことが今も、心を強く縛っている。
長年の自己暗示は、自分でも驚くほどに強力で、そして堅固なものだった。胸の奥底に、頑なに閉ざされた部分があるのを知りながらも、それを自分の力だけで開くことはとても難しく感じられた。
何か、よほどのきっかけがなければ――
「やっぱり、そっちから電話はしてないの」
「ん――なんか、しづらくって」
「まあ、わかるけど。あたしの方も相変わらずだから、奈央子が今かけても出ないかも知れないしね……」
行動を起こすことを躊躇する奈央子に代わって、彩乃は数回、柊に連絡を取ってくれていた。それによると、当日の夜にはある程度の話をしたものの、それ以降は留守電か、つながっても短い会話しかできていないという。なにやら忙しいようなのだが、聞いてみても理由は言わず「時期が来たらちゃんと話すから」の一点張りらしい。