ココロの距離
【6】-4
文学部棟の裏手は、小さな広場になっている。正門以外に大学構内へ出入りする道の一つが通じていて、日中はそれなりに人の行き来がある。しかし、奈央子たちが行った時には、5時限目開始直後の微妙な時間帯のせいか、道行く人の姿はなかった。
――広場にいるのも一人だけだ。
彩乃が手を振ると、柊は座っていたベンチから立ち上がり、こちらに近づいてきた。間隔が2メートルほどになったところで足を止め、真正面から奈央子を見る。
またしても反射的に硬直し、顔を上げるのも怖いほどだったが、彩乃に背中を押されて仕方なく半歩だけ前に出る。直後に彩乃が、何歩か後ろに下がる気配がした。
それをきっかけに、柊が意外に落ち着いた口調で話し始める。
「とりあえず、来てくれてありがとな。だまし討ちみたいな方法を使ったのは謝る。けど、どうしても聞いてほしかったから」
あらかじめ台詞を考えていたのか、緊張しているらしいものの、言葉の出てくる調子自体はなめらかだった。
「こないだのこと、もう一度謝らせてほしい。おまえを傷つけるつもりじゃなかった……それは、本当に悪かったと思ってる」
だけど、と、にわかに語調が強くなる。
「誤解されてるままだとつらいから、ちゃんと訂正させてもらいたい――あの時、おまえを望月の代わりだとか、イライラのはけ口だとか、そんなことはこれっぽちも考えてなかった。他の女じゃなくて、奈央子だったから……だから抱きしめたいと思ったし、ああいうこともした」
聞いているうちに、奈央子はなんだかわからない感情が、胸の奥から湧き上がってくるのを感じた。警報でも鳴らされているかのように、ひどく落ち着かない……この場にいてはいけないというような。
このままこれ以上、話を聞き続けていられそうにない心地だった。それほどに、頭も心も不可解ななにかで一杯になっていて、苦しかった。
その先は聞きたくない、と内心で耳を塞いだ時。
「好きだ」
聞き間違えようのないほど、はっきりとした声で柊が言った。
「やっと気づいた。望月でも他の誰でもなくて、おれはおまえが好きなんだって。自分でもわかってなかったけど……たぶん、ずっと前から」
限界だった。
考えるよりも先に、奈央子は踵を返して駆け出した。ともかくここから、柊の前から離れたかった。
走って走って、大学図書館の前を通り過ぎ、講義棟の一角とは反対側の庭園の中へ入って、ようやく足を止めた。幸い、ここも人の姿はない。
やや遅れて、彩乃が後ろから駆け込んでくる。
お互いに、呼吸を整えるため傍らのベンチに腰を下ろし、しばらく無言でいた。
かなり息が落ち着いた頃、
「ちょっと、なお――」
彩乃がいくぶん非難するように言いかけたが、こちらを見てすぐに口を閉ざした。その表情で、奈央子は自分が泣いていることに気づいた。
勝手に涙があふれてきて、何度ぬぐってもきりがない。奈央子のそんな様子に、彩乃は一転して心配そうな口調で尋ねる。
「……ねえ、どうしたの。もしかして羽村の言ったこと、嘘だと思った?」
しばし考えたのち、奈央子は泣きながら首を振った。しかし「じゃ、信じてあげるの」という彩乃の言葉にも、同じように横に振る。
「だったら、どうしたいの、奈央子は」
彩乃の声は戸惑っていた。それを当たり前だと思いながらも、奈央子はただ首を振り続けた。
「……わかんない。もう、全然わかんないの」
頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどう考えたらいいのか、全くわからなかった。