ココロの距離
【1】-2
「っと、もう1時だ。早く食べて行かないと」
「そうだね、明日も試験あるし」
「ね、もし適当な資料見つからなかったら、そっちが借りてるの見せてもらってもいい?」
「かまわないよ。なんだったら週末にでも泊まりに来る?」
「あー、そうさせてもらうかも……まぁまずは探してからね」
「ん。じゃ行こうか」
前向きじゃない。
彩乃に言われるまでもなく、奈央子自身が一番そう思っている。
実際、柊が里佳と付き合い始めたと知った時、もうやめようとも思ったのだ。それまでだって、同じように考えたことがないわけではないけど、あの時はかなり真剣にそう思った。
それから2年近く経った今。結局思い切れてない自分自身を、どうなんだろうと考えることは当然、ある。
同時に、あっさり思い切れるなら苦労していない、とも思う。なにせ物心ついてからの10数年、奈央子にとっては当たり前すぎる――もっと言ってしまえば、他と替えようのない位置に存在した気持ち。
簡潔に言うなら「あきらめが悪い」という一言になるのだろう。そう言われてもしかたないし、自分でも思わないわけではない。
けれどなるべくなら、そう考えたくはなかった。認めてしまったら負け、とかではなくて……そういう次元を超えたところにこの想いがあるのだ、という気がしている。自分でもうまく表現できないのだけど。
大学図書館での資料探しの後。
奈央子は彩乃と別れて通学路線の中継駅で下り、隣接するショッピングビルに寄り道をした。
自宅から大学の最寄り駅までは30分程度だが、途中で一度乗り換える必要がある。その中継駅の周辺は、大きなビルや商業施設等が建ち並ぶ市の中心地となっている。
日常的な買い物なら最寄り駅周辺でも間に合うのだが、中継駅近くの大型店や市立図書館に寄るついでに、と途中下車することも少なくない。この地域でバイトをしている学生も結構いるはずだ。
奈央子の今日の目的は、ビル内にある書店に立ち寄ることだった。目当ての文庫本を購入した後はすぐ帰るつもりだったのだが、何とはなしにビル内の他の店をぶらぶらと散策していた。まだ5時前だったし、明日の試験は2科目あるがどちらも午後で、複雑な出題方式ではないと担当講師が明言してもいたから、ほんの少しだけど余裕も感じていた。
ビル1階にあるブランドショップ前を通りかかった時、脇のエスカレーターを下ってきた人物に目が留まる。すぐに柊だと分かった。少し離れたところにシネマコンプレックスの入った商業施設があるので、デート先はそこだったのだろうと想像がつく。柊もこちらに気づき、手を振って近づいてくる。
――近くに里佳の姿は見当たらない。
昼間のことが頭に浮かび、一瞬気まずい思いがよぎったが、里佳がいないのだから気にすることもないかと思い直した。……どうせ柊はわかっていないだろうし。
「映画、終わったの?」
「ああ、シネコン出て茶店寄って、駅に望月を送ってきたとこ。おまえは?」
「わたしは本屋に用事があって……今日発売の新刊があったから。これからバイト行くの?」
「そ、5時半から」
柊のバイト先はこの駅ビル地下の居酒屋である。見たところ、日曜以外はほぼ毎日シフトを入れているようだった。ちなみに奈央子は、大学生協の売場で入学時から、講義の空き時間などに働いている。
「どうでもいいけど、いつも楽しそうね」
「まあな、結構性に合ってるって感じで……あ、っと思い出した。この店なんだけど」
言いながら、柊はすぐ横のブランド店を指し示す仕草をする。
「ここがどうかした?」
「女子の間で流行ってるとかいうだろ?」
確かにそうだ。今年春に放送されたあるドラマの中で、主人公が恋人の女性に贈る指輪として、この店の商品が使われていた。主人公が現在一番人気の若手俳優だったので、放送直後から「彼氏に贈られたいプレゼント」として注目され、3ヶ月近く過ぎても人気を集めている。
実際、今も店の中には、カップルらしい何組かの客の姿が見える。
「俺はそのドラマ観てないし、よくわからないんだけど……評判になった指輪ってどれ?」
「えーと……あ、ここに札が貼ってあるやつ」
ウインドウを見回して奈央子が指差したのは、どちらかと言えばシンプルなプラチナリングだった。
十数万円の値札と並べて、「現在予約受付中」の札が置かれていた。やはり人気商品らしい。
社会人ならまだしも学生だと、ドラマで使われたリングそのものは少々高額なため、4〜5万ぐらいまでの商品が売れている――と、しばらく前の情報番組で特集していた覚えがある。
「なに、望月さんにリクエストでもされたの?」
「いや……はっきり言われたわけじゃないけど。茶店でしゃべってる時にそういう話題が出たから」
「話に出したのって望月さんからでしょ。てことはやっぱり、ちょっとは欲しいと思ってるからじゃないの」
「そうかなあ……」
柊は首を傾げる。その様子が、あくまでも純粋に疑問に思ってるふうなので、奈央子は「やれやれ」と思う。根本的に女心に鈍感なのだ。嘆くべきなのかどうなのか……複雑である。
考え込んでいた柊が、再びこちらを向いた。
「おまえは?」
「えっ?」
「だからさ、おまえもこういうの欲しいって思うわけ?」
真顔で聞かれて、思わずどきりとする。
もちろん、柊が全く他意なく聞いているのはわかっている。シチュエーション的に、勝手にこちらが意識しているだけなのだ。
「わたし? え、と、そうねえ……」
そう自己判断しつつも、声が上ずりかけている。考えるふりをして口に手を当て、気づかれないように深呼吸した。
「……まあ、別に無理してまで買ってもらおうとは思わないけど。でも、もらえたら嬉しいかな、やっぱり」
「ふうん?」
そういうもんかな、と柊は呟く。
そういうもんなのよ、と返したい気分だったが、余計なことは言わないでおこうと、心の中で言うだけにとどめた。
「――あ、やばい、15分前だ。じゃあな」
「はいはい、がんばってね」
下りエスカレーター方面へと走り去っていく柊の背中に、奈央子は手を振った。
その姿が見えなくなってから、無意識に詰めていた息をようやく吐き出す。
久々に、柄にもなく緊張した。
大抵のことには動じなくなっているはずなのだが……先ほどのような近い距離で、真顔で見つめられるのは、いまだにどうも落ち着かない。そうする柊の側に、まるで深い意味はないと承知していても。
柊は特別に目立つ顔立ちではないが、奈央子が見る限りでは平均より整っている。やや童顔なところも、ある意味女の子受けのする容貌だと言える。真剣な表情は結構いけてる、とも思ったりしていた。
最後の部分は欲目も入ってるかも知れないが、とにかく、そういう顔で見られると先ほどのような条件反射が起こってしまう。心臓をきゅっとつかまれたような気分になる。
(……修行が足りないなあ、まだ)
10年以上変わらない反応に、我ながら呆れてしまう奈央子だった。