ココロの距離
【1】
文学部棟から大学図書館へ向かう道で、沢辺奈央子(さわべなおこ)は足を止めた。後ろから呼び止められたからだ。声の主である友人、瀬尾彩乃(せおあやの)が追いつくのを待って、並んで再び歩き始める。
9月半ば。奈央子たちが通う私立大学は現在、前期試験のシーズンである。日程4日目の今日、奈央子は1科目だけあった試験を終えたところだった。
彩乃とは同じ文学部・英文学科1年であるが、今日はお互い自由選択科目の試験だったため、今まで顔を合わせてはいなかった。試験後、奈央子が学部の掲示板を確認しに来たところを、同じ目的で来ていた彩乃が見つけ、声をかけたという次第である。
「奈央子、この後試験あるの?」
「ううん、今日はもう終わりだけど」
「じゃあさ、学食でお昼食べてから、図書館一緒に行かない? 週明け提出のレポートがまだできてなくて」
「あ、文学講読の?」
「そう……もしかして奈央子、もう終わっちゃったとか?」
「まさか。ほとんどやってないよ。資料は休み前にあたったけど、あんまり読んでないし」
「資料探すだけでも偉いって。あたしなんか休みに入った途端、レポート自体忘れてたもん」
そう言って苦笑いする彩乃につられて、奈央子も少し笑った。
「確かに、休み明けの試験とかレポート提出とかって、なんか気が抜けるよね」
「そうだよねー。夏休みが早いのは有難いけど、その後がね……休み前に試験終わっちゃう方が結局は楽かなぁ。そういうトコ行けば良かったかな」
「まあ、一長一短じゃない? どうせ試験はあるんだし」
などと話しながら歩いていると、また奈央子は自分を呼ぶ声を耳にする。いくつかの講義棟と、学生食堂のある建物へそれぞれ通じる分かれ道のところに来ていた。声をかけてきた人物は、講義棟のひとつである2号館の方向から歩いてくる。早足で近づいてくるのは羽村柊(はむらしゅう)だった。
反射的に微笑もうとした顔が、もう一人の人物に気づいて、一瞬引きつる。けれどすぐに、何とか不自然でない程度に笑顔をつくった。
「おー奈央子、ちょうど良かった」
「なに、柊?」
「こないだ借りたドイツ語のノート返しとくな」
「あぁ、これね」
差し出されたノートを受け取りながら、柊の後ろにいる人物にちらりと目を向ける。――望月里佳(もちづきりか)。
彼女の表情は一見平静だが、目は奈央子と話す柊をじっと見つめている。時折奈央子の方に向ける視線は、どこかトゲトゲしい。
さっさと話を切り上げようと考えた途端、柊が、
「そっちも今日は試験終わりだろ。ノートの礼にメシおごるから学食行くか?」
と言った。
(バカ!)
舌打ちしたい気分だった。
里佳の視線のトゲがいっそう増えた気がする。
他の3人が何か言う前よりも早く、奈央子は口を開いた。
「オゴリはありがたいけど、のんびり食べてる暇はないのよ。週明けに出すレポートの資料探さなきゃいけないから。ね、彩乃」
「……うん、まぁね」
「それに、これから望月さんとどっか行くんじゃないの?」
「え。まあ確かに、映画観に行くつもりだけど」
「だったら食事も二人でしてきなさいよ。せっかくのデートのお邪魔するほど無粋じゃないから、わたしたち。ねえ?」
再び彩乃に同意を求めると、なにやら複雑そうな表情をしたが、いちおう頷いた。
それでもまだ場を去ろうとしないばかりか、
「けど、まだ時間あるしなあ?」
よりによって里佳にそう尋ねる柊の鈍さに、思わず盛大にため息をつく。心の中で。
「いいんだって、わたしたちほんとに急ぐから。それじゃ」
早口で言いおいて、彩乃の腕を引っぱり、二人に手を振ってその場を離れた。
――注文を終えて、学生食堂の椅子に腰を落ち着けてからも、彩乃は何度か意味ありげな表情でこちらを見た。何か言いたげな目にも気づいていたが、奈央子はあえて知らないふりで別の話題をふる。
後期に選択したい科目の話が一段落ついたところで、
「あのさ、あんまりこのことは言いたくないんだけど……」
日替わり定食の鶏唐揚げをつつきながら、おもむろに彩乃がそう切り出した。
来たな、と奈央子は思う。
「ねえ、やっぱ不毛だよ奈央子。前向きじゃないと思うよ」
「――うん、そうだね」
柊は、いわゆる幼なじみだ。実家が近く、誕生日が2日違いという縁である。
もう少し詳しく言うなら、出産予定日の近かった母親同士が、ご近所さんのよしみもあり親しくなった。奈央子の母は初産で柊の母は2度目だったので、前者が後者に頼ることも多かったらしい。
出産後も母親同士の親交は続き、必然的に子供連れで会うのが普通だった。だから文字通り生まれた時から……否、生まれる前からの付き合いになる。
高校で女子高と共学に分かれるまでは、幼稚園から中学までも同じだった。大学に関しては、柊はもともとこの大学が第1志望であり、奈央子は本命の国立大学に不合格だったため、いくつか合格していた私立の中からここを選んだ。
――いや、最後に関しては、半分は嘘である。
奈央子は、幼なじみが第1志望に受かったことを知った上で、ここを選んだのだから。
凄まじくありがちすぎて、自分でも呆れてしまう時がままある。
それでも、奈央子は柊が好きだった。
幼なじみとしてだけではなく。
「そもそも、どうしてそんなに好きなわけ?」
「……うーん」
彩乃に問われて、ちょっと考えた。
そう聞かれるのはこれが初めてではない。
彩乃とは中学1年で同じクラスになってからの付き合いで、高校も同じ女子校だった。柊への気持ちを打ち明けた数少ない相手でもある(というより、彩乃の方が先に感づいて尋ねてきた)ので、中学時代から何度となく繰り返されてきた問いであった。
――実のところ、自分でもよくわからない。
深く考えたことがない、というよりも、考える以前のことだというのが正直なところだったから。
物心つく前から、当たり前のように近くにいて、一緒にいることがただ純粋に楽しかった。
もちろん女の子の友達はいたし、普通に遊んでもいたけれど、誰よりも長く一緒にいたかったのは、いつでも柊だった。
そんな想いが、気づいた時には恋心として、自分の中にしっかり根付いていた。
「……わかんないな」
だから、この答えもいつも同じだった。具体的に理由が言える問題ではなかったから。
それきり何も言わず、カレーライスを再び食べ始める奈央子を見て、彩乃は小さくため息をもらす。
「重症なんだね、相変わらず」
と言われて、奈央子は苦笑した。
確かに、重症だと思う。
彩乃以外には言っていないが、国立を落ちたのは実は、不可抗力ではなかったのだし……
「わかった。じゃあ安斎さんにはあたしからも一言言っておくよ」
「……うん、悪いけどよろしく」
安斎さんというのは、彩乃が所属する混声合唱サークルの2年生である。夏休みに入る前、奈央子は彼から交際を申し込まれたが断った。しかしその後も安斎氏は何度か誘ってきており、そのたび断るのだが、あきらめてくれる様子がなかったため、彩乃に相談していたのだった。