ココロの距離
【5】-3
その夜も、奈央子はなかなか寝つけずにいた。
昨日ほとんど眠っていないので、時々うとうととはするのだが、まとまった熟睡ができない。10分と経たないうちに意識が浮かび上がってしまう。
……何度も何度も、昨日と今日のことを思い返して、そのたびに胸が苦しい。いっそ呼吸が止まってしまえば楽になれるのに、と思うぐらいだった。
今まで、いわゆる「男女交際」をした経験は奈央子にはない。申し込みは中学時代から絶え間なかったのだが、最終的には全部断ってきた。どの相手にも、柊に対するのと同じ、あるいはそれ以上の気持ちを持てそうにないと思ったからだ。
……だから当然、キスをしたこともなかった。するなら好きな人が相手でないと、とずっと思っていて、形だけなら昨日は確かにそうだった。
けれど状況を考えたら、とても喜べるものではない。それどころか屈辱さえ感じている。
柊が正しい意味で、自分にキスするはずがないからだ。柊の恋人は里佳であり、奈央子ではないのだから。
昨日、学内で見かけた里佳は、とても落ち込んでいるふうに見えた。柊の態度の不審さと考え合わせて、おそらくかなり大きなケンカをしたのだろうと奈央子は思っていた。
その理由まではわからないし、正直どうでもよかった。問題は、ケンカでむしゃくしゃしていただろう気持ちを、柊がこちらにぶつけてきたことだ――よりによってあんな行動で。
どうしたって、里佳の代わりにされたとしか思えなかった。……幼なじみとしてしか見てもらえないよりも、もっとひどい。
それぐらいならいっそ嫌われるか、もしくは自分から嫌いになる方がましだ。しかし、前者はさておき、後者の方法は難しいとわかっていた。
あんなことがあってもまだ、好きだと思う気持ちが消せないでいるからだ。嫌になるほど頑固に、心の奥深くに居座り続けている。
だからこそ、昨日のことがこんなにも悔しくて、屈辱的で、そして悲しかった。
――もう、本当にやめてしまいたい。
柊への気持ちを、跡形もないほどになくしてしまいたかった。彩乃の言い方を借りるなら、「不毛で前向きじゃない」思いはもう金輪際したくないと、これまでで一番強く思った。
……ふと目を開けた時、外で雀の鳴く声が聞こえた。目覚ましを見ると、まだ5時半過ぎだ。
今日は木曜だから、1時限目に語学がある。電車の乗り継ぎなどに余裕を加えて、7時40分ぐらいに出れば充分間に合うはず……
習慣でそこまで考えた時、別のことが頭に浮かんだ――しばらく布団の中で迷っていたが、崖から飛び降りるような覚悟で決心する。
奈央子は起き上がり、出かける準備を始めた。
「――――えぇ!?」
そう言ったきり彩乃は、ぽかんと口を開けたままで奈央子を見ていた。すでに数人から同じ反応をされているのだが、やはり慣れない。奈央子自身、まだ落ち着かないせいもあるが。
4時限目、英文法講義の始まる少し前である。
「なんかおかしい?」
決まり文句になりつつあるなと思いながら、今日何度目かの同じ台詞で尋ねつつ、髪に手をやる。背中の半ばを越す長さだったのが、今は肩にどうにか届く程度のセミロングになっていた。
通学路線で、朝早くからやっている美容院を探して、1時限目の前に寄ってきたのだ。長年伸ばしてきて、自分でも少し自慢の髪だった。実際、切る直前まで迷いは残っていたし、美容師にも「キレイな髪なのに切っちゃっていいの?」と聞かれた。
けれど、気持ちを切り替えるためにはこのぐらいのことをしないと駄目だと思った。だから「はい、肩のあたりでそろえちゃってください」と言った。髪が短くなっていくのを見ているのは寂しかったが、前向きになるためなのだからと、終わるまで呪文のように心の中で繰り返した。
30センチ以上切ったので、ずいぶん軽くなった感じがする。髪の先が動くたびに首や肩に触れるのが、どうも落ち着かない。長かった間はたいていまとめるか束ねるかしていて、たまに下ろしていた時でも、髪先の感覚はいつも背中だったからだ。
ようやく驚愕から覚めたらしく、彩乃が言った。
「い、いや、おかしくないよ。似合ってるけど……なんで切っちゃったの、もったいない」
それも、今日会った顔見知りにさんざん言われたことだ。
「まあ、気分転換。ずっと長かったからちょっと飽きてきたし」
用意していた台詞を奈央子は口にする。――もっとも他の人はともかく、彩乃がそれで納得してくれるとは思わなかったが。案の定、奈央子の言葉にすぐに相槌は打たず、物問いたげな目でじっとこちらを見つめる。
奈央子は苦笑いでそれに応じた。と、彩乃の目つきが気遣わしげなものに変わり、小声でこう尋ねてきた。
「羽村は知ってるの?」
「うん、1限に語学あったから」
始業チャイムが鳴る直前、教室へ駆け込んでくる数人の学生に柊が混じっていた。ばたばたと空席が埋まっていく中、奈央子の席の脇を通りがかった学生が、唐突に足を止めた。反射的に顔を上げると、柊だった。
信じられないものを見たように、驚きと困惑、その他いろいろな感情を目と顔に浮かべ、奈央子を見下ろしていた。奈央子はできるだけ無表情を保ち、しばし柊を見つめた後、視線を机に戻した。
その時、担当の講師が入ってきたので、柊もはっと我に返り、空いている席についた。奈央子の席からだいぶ離れた位置だったので、内心ほっとした。
その時のことと、ついでに昨日の夜のことをざっと話すと、彩乃は考えこむように目を伏せた。
少しの沈黙ののち、再びこちらに視線を向ける。
「それじゃ、向こうの話は全部聞かなかったわけ」
「確かにまだ続きそうだったけど、でも聞く必要ないでしょ。言いたいことはわかってるわけだし」
「……でもそれって、奈央子が考えたことだよね。羽村の言い分が全部それと同じとは限らないんじゃないかな」
意外なことを言われて、やや言葉に詰まった。確かに、柊が言おうとしたことを最後まで聞いたわけじゃない――けれど。
「でも、大筋はたぶん一緒だよ……多少の内容の違いがあったって、事実は変わらないもの」
そう、事実は同じだ。あの時「どうかしてた」柊が、たまたま横にいた奈央子に苛立ちをあんな形でぶつけてきたということは、なにをどう言おうと変わりはしない。
あの時、親切心なんか起こさなければよかったとさえ、今の奈央子は思っていた。