ココロの距離
【5】
「……奈央子? 目、真っ赤じゃない」
翌日、水曜日。
2時限目の英語学概論で会った彩乃は、奈央子の顔を見て開口一番そう言った。
「やっぱりわかる?」
「わかるよー。どうしたの」
「うん……ちょっと昨日眠れなくて」
眠れなかったのは事実だが、理由を言う気にはなれなかったので語尾をにごす。幸い、彩乃は追及してこなかった。
「そうなんだ。じゃあ語学概論、眠くなったらちょっと寝たら? 後でノートコピーしてあげるから」
「ん、ありがと」
少し笑ってそう答えた時、チャイムが鳴り、担当教授が教室に入ってきた。百数十名の英文科学生が一瞬ざわめいた後、波が引くように静かになる。
――90分後、終了のチャイムと同時に、再び教室内にざわめきが広がった。これから50分間は昼休みである。
隣にいる彩乃が、「学食行かない?」と誘ってきた。食費節約のため、週に何度かは弁当にしている奈央子だが、今朝はさすがに作る気力がなかった。
彩乃と連れ立って講義棟を後にし、学生食堂へと急ぐ。時間が時間だけに、入り口から中をのぞき見た限りでも、すでに大部分の席が埋まっているようだった。食券売場の前にも長い列ができている。
しばし相談の結果、彩乃が券を買い、奈央子が席を探しに行くことにした。食堂の中に入り、2人分の席がないかと見回す――と。
奈央子が立っている、テーブルとテーブルの間の通路、その延長線上に柊の姿があった。同じように席を探しているのか、食堂内をきょろきょろと見回している。
思わず硬直したその時、柊がこちらに気づいた。はっと息を飲むようにわずかに口を開き、動きを止める。
奈央子も、動くことができなかった。
何秒か、何10秒かののち、柊がこちらを目指して歩き出そうとした。それを認めた途端、金しばりが解けたように、体が勝手に反応した。
柊に背を向け、出入口を目指して走る。追いかけてきませんようにと願いながら、食堂を、学生会館をも走り抜け、建物の裏に出た。
近くの石段に腰を下ろし、呼吸を整えていると、こちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。反射的に立ち上がったが、姿を現したのが彩乃であるのに安心し、再び石段に座り込む。
「ど……うした、のよ」
息を切らしながら尋ねる彩乃の手には、食券が2枚握られていた。そういえば完全に忘れていた。
「……ごめん」
食券に目をやりながら謝る奈央子に、彩乃は顔を近づけた。すでに隣に場所を確保して座っている。
「それよりも理由を話してよ。ちょうど券を買って食堂に入ったところで、あんたを見つけたの。なんか様子が変だったから見回してみたら、羽村がいたでしょ。あっちが近づこうとしたらあんたが逃げて……羽村は追いかけようとしたけどやめたみたいだった。何があったの?」
奈央子は、胸と喉につかえる苦みを感じた。
見られてしまったのなら、話さなければ納得してもらえないだろう。……どのみち、彩乃にはいずれ気づかれるはずのことだ。いつまでも秘密にはしておけない。
けれど、口に出そうとするとつらかった。言おうと何度も努力するが、言葉が出てこない。そんな様子に、彩乃は顔を曇らせた。小さな声で尋ねる。
「そんなに言いにくいことなの?」
逡巡した後、奈央子は首を振る。縦でなく横に。
「――確かに言いにくいんだけど、でも……一人で考えてるともっとつらいから。あのね――」
意を決して、昨日のことを全部話した。泣きながらマンションに帰り、夜もほとんど眠れなかったことも。
聞き終わった後、彩乃はちょっと待っててと言いおき、建物の正面方向へ走っていった。10分ほどして戻ってきた時には、売店の紙袋を抱えていた。サンドイッチの包みを取り出し、奈央子に差し出す。
「食べられる?」
「……ありがとう」
ミックスサンドと緑茶のボトルを受け取り、礼を言った。お互い、5時限目まで講義がある身だ。何も食べなかったら腹の虫の我慢が保たないだろう。
しばらく、無言で食べることに専念した。
最後のひと口をお茶と一緒に飲み込んでから、「それで」と彩乃があらためて口を開いた。
「奈央子はどう思ってるの、……その、昨日のことの理由」
尋ねられて、奈央子はどう言うべきか、頭の中で思いつく限りの言葉を反芻した。しかし結局、最初に思ったようにしか表現できないことに気づいた。
「――わからない、けど、本気だとは思えない」