ココロの距離
【4】-4
インターホンの音に、柊は唐突に意識を呼び戻される。今の状況を思い出すまでにいくらか時間がかかった。
(……そうだ、確か朝早くに望月が来て……)
奈央子とのことを聞くために、家に入れたのだった。最初はごく普通に、何を話したのかと尋ねていたのだが、里佳は言葉をにごすばかりで詳しく言おうとしなかった。何度も同じ質問を繰り返すと、いきなり里佳がうんざりした口調で「そんなことどうでもいいじゃない」と口走った。そう言った直後に顔色を変えたので、彼女にとっても失言だったのだろう。しかしその時はそう考える余裕などなく、自分でも驚くぐらいに頭に血がのぼった。
それから先は、穏やかに話をするどころではなかった。こちらは怒って責めるような口調になるし、そうなればなるほど里佳の方は逆上する。そのうち「今まで黙ってたけど――」といったことを片端から挙げ始めた。いまだに名前で呼んでくれない、何かに誘うのもいつも自分から――あまりに多かったので全部の内容はいちいち覚えていないが。
だが、最後に言われたことだけは、はっきり覚えている。
『わかってたわよ、羽村くんが私のこと、本当は好きじゃないって』
半分以上泣き顔で、里佳は言った。
『ほんとに好きな人は別にいるって、とっくに知ってた――そうよ、あんな人が近くにいて、好きにならないわけない』
そう言われてもなお、柊には何のことだかわからなかった。里佳が泣くのをこらえながら部屋を出ていった後もまだ、その意味を考えていた。
(ほんとに好きな人は別に――)
自分の近くにいる他の女といえば、幼なじみしか思い浮かばない。
里佳が言っていたのはそれなのか。だが。
(おれが奈央子を?)
好きかどうかと聞かれれば、当然嫌いではない。
生まれた時からの縁があるし、昔からいろんなことを相談して助けてもらってきた。一番長い付き合いの女友達、かつ姉妹みたいな幼なじみとして、大事に思っている。
けれど、異性としてどう思っているのかと聞かれると……よくよく考えると、答えが出てこない自分に気づいた。
そんなふうに意識したことがない、と言うのは少し違う気がする。奈央子がいわゆる「才色兼備」なのは確かだし、そのことは認めていた。
しかし、子どもの頃から見てきた柊にとっては、ある意味でそれは当たり前すぎて……意識する必要もないぐらい、身近な存在だったと言うべきか。
ふと、先月のことが思い出された――奈央子がドイツ語のノートを持ってきてくれた日のこと。同時に、その時に感じた焦りに似た気持ちも蘇り、途端に胸が騒ぐ。思いもしない反応とその激しさに柊はうろたえた。
気分を落ち着かせようと、違うことを考えようとしているうちに、寝不足のせいもあってかしばらく眠ってしまったらしい。今は何時なのだろう。
再びインターホンが鳴る。億劫で起き上がらずにいると、ドアの開く音がした。一瞬驚いたが、里佳が出ていった後、鍵をかけた覚えがないのを思い出した。
「……柊、いるの、いないの?」
しばらくの間の後、聞こえたのは奈央子の声だった。頭の中に残っていた靄が一気に取り払われる。
慌てて起き上がった直後、幼なじみがそっと顔をのぞかせた。目を見開く。
「なんだ、いるんじゃない。どうして電話に出なかったの?」
そう言われてみれば、しばらく前に携帯が鳴ったような気もする……半分眠っていたし、面倒で出る気もしなかったのだが。
答えを待たず、柊の様子と、部屋をさっと見回して、奈央子が言う。
「今まで寝てたわけ? 風邪でも引いた?」
「……いや、そういうわけじゃ」
歯切れの悪い柊の返答に、奈央子が眉を寄せた。
「じゃあ、どうしたのよ。1限に演習があったんでしょ? レポートの打ち合わせだったのに来なかったって、語学一緒の史学科の人が困ってたわよ」
半分怒ったような口調だが、心配して言ってくれているのだとわかる。そのことが今はひどく嬉しくて、そして心地良かった。
奈央子はその後しばらく、視線を下に向け、なにか考えているようだった。一度はこちらを見て口を開きかけたが、迷うような間を置いて何も言わずにまた視線を落とす。
なぜかため息をひとつついてから、柊が座っているベッドの方へと近づいてきた。カバンを肩から下ろし、紙の束を挟んだクリアファイルを取り出す。
立ったまま、少し前かがみになった状態で、奈央子はその中身について話し始めた。
「これね、その史学科の人から――根本さんだったかな。渡してほしいって頼まれたの。こっちが必要な資料のコピーで、こっちが今日話し合ったことの大まかな内容。早めに目を通して、夜にでも連絡してほしいって――」
幼なじみの声を聞きながら、柊は不思議なほどの充足感が自分の中に広がるのを感じていた。
彼女が近くにいるのがこんなに心地良いものだとは、今まで思いもしなかった。それが当たり前のことだったから――少なくとも、柊自身はそんなふうに認識していたからだ。
顔を合わせることすらほとんどなかったこの何日かの間、奈央子のことを考えるたびに漠然と感じていた、空ろで居心地の悪い感覚。今はそれも消え、隙間が満たされていくような気持ちだった。
目を上げて、奈央子の顔を見た瞬間、経験したことのない激しい衝動に襲われた。
つき動かされる心のまま、奈央子の腕に手をかけて引き寄せる。いきなりバランスを崩されて倒れこむ体に、柊は腕を回した。この間と同じ、髪の甘い香りとなめらかな感触を確かめる。
相手の戸惑いは伝わってくるが、抵抗は感じられない。それに背中を押された気分で、柊は奈央子を抱きしめる手に力をこめる。
その時初めて状況に気づいたように、奈央子が腕の中で体をこわばらせ、逃れようと身じろぎした。だが離すつもりはなかった。肩に回していた手を、奈央子の頭を支える位置へと動かし――吸い寄せられるように唇を重ねる。そのやわらかな温もりに、柊が我を忘れてしまいそうになった時。
必死にもがき続けていた奈央子の手が、胸の真ん中を思いがけず強く叩いた。不意をつかれ一瞬息ができなくなり、力がゆるんだ瞬間、柊は思いきり突き飛ばされていた。
こちらがベッドの上に半ば倒れこむ間に、奈央子は素早く立ち上がり、カバンをつかんで玄関へと向かっていた。慌てて身を起こし、呼び止めようとする。だが。
走りながら一瞬振り向いた奈央子の横顔。
その頬に流れる涙に、声を失った。
呆然と柊が見つめる前で、部屋のドアが閉まる。通路から階段へと駆けていく足音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
フローリングの床に、奈央子が落としたファイルと、いくつもの紙束が散らばっている。それはそのまま、奈央子の動揺とショックを表しているように見えた。
――同じ日に、自分のせいでまた女を泣かせた。それはひどく心に重たい事実だった。
そして、1人目よりも2人目の涙の方が、今の柊には何倍も重くのしかかっていた。