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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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ココロの距離

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【4】



 「……むら、おい羽村」
 「あ?」
 ささやくような呼びかけが耳元で聞こえ、驚いて柊は声がした方を向いた。
 隣に座る木下の、呆れたような顔。席の近い周囲の学生も、ちらちらと視線を向けてきている。柊の反応した声は意外に大きかったらしい。
 そこで、今の状況を思い出した。ここは学生会館内にある会議室のひとつ。昼休みの間ミーティングのために借りて、大学祭での出店に関する決定事項をサークルの全員に通達中なのであった。
 「あ、じゃないっての。さっきの話聞いてたか?」
 「さっき……って、どの?」
 「やっぱりな。期間中の店番シフトの話だよ。俺とおまえと、2年の永井さん中心で2日目午後の担当だって。あ、それと望月さんも」
 名前を聞くと同時に、柊は里佳の方を見た。
 黒板のある側に向かって、長机が横向きに10数列並んでいる会議室。里佳は友人の女子学生数人と一緒に、柊の3列ほど前に座っている。
 後ろから見ている限り、出店企画の責任者の話に耳を傾けながら、両隣の友人と時折しゃべっては、楽しげに肩を揺らしている。柊と会った時の様子もこれといって変わりはない。
 変わったというなら、それは奈央子だった。
 10日ほど前のあの日以来、めったに顔を合わせない。学科が違うからこれまでも頻繁に会っていたわけではないが、最近は見かけることすら極端に少なかった。入学して約半年、こうまで学内で行き会わなかったことはないと思うほどである。
 それどころか、避けられているんじゃないか、という気さえしている。数日前に講義棟の中で見かけて声をかけた時、奈央子は何故か気づかない素振りで通り過ぎようとした。一緒にいた友人の彩乃に引き止められ、こちらを振り返りはしたが、軽く手を振っただけでまた背を向け、講義棟の外へと歩いていった。奈央子の一連の行動に、傍らの彩乃は、少なからず戸惑っている様子だった。たぶん柊と同じように。
 クラスが同じ語学の時間は当然会うものの、奈央子が終了後は妙に素早く教室を出ていくので、話しかけるタイミングがない。しかも、思い返してみれば、意図的に離れた席を毎時間選んでいるようでもあった。そして、選択期間に出席していた西洋史概説の講義は、履修登録しなかったのか、2週目には姿を現さなかった。
 つまり、この10日近く、奈央子とはほとんど話してもいないのだ。何気ない挨拶ですら。
 何度か電話やメールもしてみたが、半分以上は留守電や未返信で、たまに返答があってもごく短い。電話なら「忙しいから」などとすぐに切りたがる。いったいどうしたというのだろう。
 もともと、特別にベタベタした関係ではなかったけれど、これほどの「会わず話さず」の状態は異常に思えた。
 ……考えてみると、高校が別だった3年間も、1週間以上会わないことは(修学旅行や家族旅行などの時を別にすれば)めったになかった。母親同士の仲が良かったから、頻繁にお総菜やらお菓子やらをもらったりあげたりしていて、そのたびに自分や奈央子が遣いになって行き来していた。そして、訪ねる側がお茶に呼ばれたりするのも恒例で、そういう日が週に2回はあったものだ。
 ということは――大げさに言ってしまえば、物心ついてからの10数年で初めて、奈央子とろくに会わない時期が続いていることになる。
 「なあ、木下」
 「ん?」
 「2週間ぐらい前、望月と奈央子が学食で話してるのを誰かが見たって言ってたよな?」
 「ああ、さっきの話か? 学部の知り合いがたまたま近くの席に座ってて見たって。学食じゃなくて喫茶だけどな」
 その「学部の知り合い」は以前、奈央子のことを「聞かれたことがある」と言っていた学生らしかった。二人とも、奈央子にある程度の興味を持っていたから、覚えていたし話題にもしたのだろう。
 彼によれば、話していたのはほとんど里佳一人であり、先に出ていったのも里佳だった。そして奈央子はその後、やけに元気のない様子で、長いこと席を立たなかったという。
 その話を木下経由で聞いたのはつい先ほど、ミーティングが始まるのを待ってる間のことだった。
 約10日前、奈央子が里佳をもっと大事にしろと言った時、里佳と何かあったのかと聞いたのは単なる直感――と言えば聞こえはいいが、どちらかと言えば当てずっぽうだった。ただ、里佳との付き合いに関して、奈央子の方から口を出された覚えはなかったので(柊から相談したことは何度もあったが)、なにか変だと思ったのは確かだ。
 しかし学内でも、週末に会った時にも、里佳の言動に特別な変化は感じられなかった。だから、二人に本当に何かがあったとは考えていなかった。木下から話を聞くまでは。
 入学後に顔を合わせて以来、里佳が奈央子に対してさほど好意的でないのは、理由はわからないながらも気づいていた。奈央子もおそらくはわかっていて、この半年、里佳と積極的に関わることはしていなかった。
 そういう彼女たちが、二人だけで会って話していたというのは、どうも奇妙だ。いったい、話すような何事があったのだろう。
 ……ミーティングが終わったのは、昼休み終了の15分前だった。司会が解散を告げた後は、3時限目の講義へと急ぐ者、遅い昼食をどうしようかと話している者と様々である。
 柊は3時限目は休講で空いていたので、学生食堂へ腹ごしらえに行くつもりだった。ちなみに木下は早々に次の講義教室へと向かってすでにいない。
 会議室を出ようとしたところで、里佳に呼び止められた。他の邪魔にならないよう、通路に出る。
 「ねえ羽村くん、今日の約束忘れてないよね」
 「約束?」
 「やだ、5限の後で、新しくできた駅前のカフェにディナー食べに行こうって言ったじゃない、昨日」
 そういえばそんな話をした気がする。里佳が雑誌で見つけて行きたがっていて、今日ならバイト休みだから別にかまわない、と答えたような……
 「ああ、それ――いや、言おうと思って忘れてたけど、行けなくなった」
 「……えっ?」
 「昨日のバイト中に、明日急に人が足りなくなったから入ってくれって、店長に言われて」
 と言ったが、嘘である。
 里佳と何があったのか、なんとか奈央子に連絡をつけて聞きたかった。一刻も早くそうしないと落ち着かない気分だったので、今日の夜は空けておきたかったのだ。
 ――先に里佳ではなく、奈央子に聞こうと考えたことを、柊は不自然とは感じていなかった。目の前に里佳がいるにも関わらず。
 「そうなの? じゃあ仕方ないね……」
 残念そうに表情を曇らせた里佳に、少しだけ申し訳なく思ったが、その感情はすぐに心の隅に押しやられた。無意識のうちに。
 「じゃ、近いうちに都合のいい日、考えておいて。また電話するから」
 そう言いおいて、里佳は小走りで通路を駆けていき、階段を下りていった。
 里佳の姿が見えなくなってから、柊もその場を離れて歩き始めた。まずは昼メシをすませて、3時限目が終わる頃に電話してみようと考えながら。

作品名:ココロの距離 作家名:まつやちかこ