恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス
美穂から指示をされた170以下に落とすまで、少しペースを落とさなくてはならない。でもわたしもこれくらい走れるンだ。
彼にイイ所を見せるためにも、もう少しペースを上げなきゃ!
***
ハア、ハア、ハア......。
ゴールまであと3キロ! でも少し息が苦しい......。
裕美が残りの距離をチェックし、もう少しだからと自分に言い聞かせていた。ホノルル・センチュリーライドの時と同じだ。あの時もあと何キロと自分に言い聞かせていた。
ただ苦しさの質がセンチュリーライドの時とは全く違う! あの時は身体が疲労で徐々に蝕まれていくような辛さがあった。
しかしヒルクライムは酷く呼吸が苦しい! そう、苦しいのだ。
裕美は自分がレッドゾーンを越えて始めていることに気が付かなかった。
無理もないことだ。今回のレースが、裕美のとって初めてのヒルクライムなのだから。ヒルクライムを本格的に走った経験がない裕美は、自分の限界域がどこまでかを知らない。客観的な走行データが不足しているため、たとえ美穂でも裕美の限界域とそれを何分維持できるかを教えることは出来なかったからだ。
裕美が限界を超え始めたことに気付かない理由はもう一つあった。
ドラフティングだ。
ドラフティングとは高速巡航中、相手の後ろに"付く"ことで空気抵抗を減らし走る負担を減らす走行方法のことだ。
裕美は今まで『ワルキューレ』の実業団メンバー達と、『トレイン』を組んで走った経験が多いことから、誰かの後ろに付くことで体力の消耗を抑えられることを十分に分かっていた。
このドラフティングの効果は何も平地の高速巡航に限ったことではない。ヒルクライムのような20km/hを下回る低いスピードでもその効果は十分に体感ができる。頬に受ける風が、僅かながらも弱く感じられるのだ。
ヒルクライムも中盤を過ぎると、速い人は裕美を抜き、遅い人は裕美に抜かれ。この行為が繰り返し行われる中で、同じペースで走る人達が集まり始める。裕美は集団を抜けて、先行する不利を知っているので、前を走ることを避け、誰かの後ろに付いて走ることに専念していた。
しかしドラフティングを意識する余り、他人のペースで走ることも多く、裕美にとってオーバーペースとなり始めていた。
たとえ僅かでも限界を超えれば、体力が維持できる時間は徐々に短くなっていく。
裕美の意思とは無関係にだ。
ゴールが先か? それとも裕美の体力が尽きるのが先か? 時間と体力の勝負が始まっていた。
***
その時、後ろから声がかかってきた。
"彼"が来た!
「裕美さーん! やっと追い付きましたよ! 思ったより速くなっているので驚きました。これなら入賞も目指せるかも知れませんよ」
「店長さん、ありがとう!」
ヤッター! 彼が認めてくれたわ! わたしも走れるって。
でも、入賞? よく分からないけど、これで今回のレースの目的は達成したようなものね!
「裕美さん、少し一緒に走りますから頑張って下さい」
エッ、一緒に走れるの? だったらわたしも走れるところを見てもらわなきゃ!
「店長さん、わたし頑張るから見てて!」
スピードを上げて、もっと走れるところを彼に見せなくちゃ!行くわよ!
カチ、カチ、ガチャン!
裕美がギアを上げて、サドルから立ち上がりダンシングを始めた。
ハア、ハア......。
あれ、あれ? わたしどうしちゃったの?
ダンシングをしても力が入らず、スピードが上がらない。ツバサに見せた時とは全然違う。まるで水辺でもがくアヒルの様に身体をバタバタさせるだけだ。ペダルに力が入らない!
これってもしかして......?
「裕美さん! ペースを落として下さい!」
彼は裕美にあっという間に追いついて、裕美の"チェック"に入った。
「裕美さん、心拍数は今幾つですか?」
裕美はサイクル・コンピュータの心拍数を見ると、175bpmを示している。でもさっきは185bpmだって超えて走っていたのに!
「店長さん、心拍数が上がってない。ダンシングも力が入らない!」
「裕美さん、落ち着いて。オーバーペースですよ。体力が限界に近いんです。ペースを落として下さい」
「でも、わたしもっと速く走りたい! 店長さんと一緒に走りたいし。そのために頑張ってきたの!」
「大丈夫です。レースだから背中を押すことはできないけど、俺が裕美さん引きますから、後ろに付いて休んで下さい。
まず心拍数を160bpmまで落として! それからギアも落として下さい」
「ハア、ハア......。分かったわ、店長さん!」
彼は裕美の前を走り始め、裕美のペースをコントロールした。スピードを少し落とし心拍数を下げるためだ。もちろんドラフティングで風の抵抗を減らせるので、体力の回復も早くなる。
裕美もペースが少し落としたことで呼吸が楽になり、気持ちも徐々に落ち着いてきた。裕美は美穂の言葉を思い出した。
「タッキーにまた助けてもらったら裕美の負けやで」
美穂姉え、わたし、負けちゃったのなあ......。
「ねえ、店長さん。わたし、ちゃんと走れてる?」
「裕美さん、何を言っているんですか! 十分走れていますよ。女性でこれだけ走れる人はそういませんよ」
「本当? わたし、大丈夫? ツーリングにだって行ってもいい? 今度は迷惑かけないから」
「もちろんですよ。これだけ走れるなら、どこにだって行けますよ!」
「タカシさん達は抜きでお願いね。またセクハラされちゃうから!」
「ハハハッ、そうですよね、またタカシさん達にイジられちゃいますし」
「ねえ、もう少しペースを上げて。わたしこれくらいおしゃべり出来るんだから、もう平気よ!」
「了解です。じゃあ行きますよ。これならゴールまで持つでしょう」
***
えっ? 店長さん、速い!
彼の後ろを走ると、思った以上にスピードが出ていることに気づいた。傾斜の緩い坂では、かなりのスピードを出している。時速20キロを越える時もある程だ。
しかし、それなのにさほど苦しさは感じない。キツイ坂ではスピードをかなり落とし、ペダルを無理に踏み込まないからだ。それに傾斜が厳しくなる前に、彼が前もってギアを落とすよう声をかけてくれる。
平均的なペースは上がっているが、これはドラフティングの効果だけではない。彼のライディング・テクニックの上手さなのだろう。
それに彼と一緒に走っていると、とても安心できるし、さりげない言葉でも元気が出る。初めてのレースで、苦しい時に一人で走るのは不安で仕方なかったろう。
あと少しよ。500メートルのサインが見えてきたわ!
残りは500メートル。それなら......。
「店長さん、ペースを上げて。わたし、全力で走る!」
「しかし、裕美さん。」
「イイの! 行って!」
「......。分かりました。行きますよ!」
体力が限界に近づいているため、一言しか声を出せる状態ではないが、彼も裕美の"本気"を感じたようでスピードを更に上げた。
作品名:恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス 作家名:ツクイ