恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス
裕美がちょっと下を向いているようなので、美穂が声をかけてきた。
「ねえ、美穂姉え、わたしも100マイル行けるかな? さっき店長さんにわたしも100マイル頑張ってって言われちゃって......」
「アハハ、相変わらずタッキーも自転車馬鹿やなあ。女の子に160kmを走れって言ったらドン引きするやろうに。まあハワイに来てまで辛い思いをして無理することはあらへんからな。半分の50マイルくらいで、エエんちゃうか?」
ロードバイクに乗りたての裕美に対して、美穂のアドバイスは適切なものであった。
ホノルルセンチュリーライドは箱根駅伝の様に、一度走ったコースを往復する形となっている。サーキトのような周回コースではないので、途中で体力が尽きては帰って来れなくなる事も十分考えられる。
ただ自己満足のために、無謀な挑戦をして玉砕するだけならまだ良い。
しかし途中でリタイアして彼や美穂に迷惑を掛けてしまうことを考えれば、無理をする訳にはいかない。
失敗をしてメソメソ泣くだけの女と思われるのは嫌だ。
かと言って、何のチャレンジもせず、彼の期待を裏切ることも正直後ろめたい。期待と現実は、決してコーヒーとミルクの様に溶け合うことはないのだ。
美穂姉えが、無理するなって言うのなら......
彼女のアドバイスに従おうと思ったその時、美穂はさっきとはまるで逆のことを言い出した。
「......って、普通なら言うところやけどな。100マイル走ってみい! タッキーにアピールするこれ以上ないチャンスやろ。ハートブレイクヒルであれだけ登れたんやから100マイルを走りきることも無理やないよ」
「でも、途中でリタイアしちゃったら、彼にも迷惑掛けちゃうし......」
「心配するなって! ちゃんとわたしがタッキーにフォローを入れるよ。裕美の女の価値を下げさせる様なことには絶対せえへんから」
「ありがとう、美穂姉え......」
そうよ! 美穂姉えの言う通りだわ! 彼と一緒に走れないんだから、100マイルを走ってアピールしないと、彼とわたしは単なる"お客様"の関係で終わっちゃう。ハワイまで来た意味がないじゃない!
「うん、美穂姉え! わたしヤルわ! 100マイル走ってみる!」
「おっ、裕美もやる気やなあ。その意気や。でも100マイル走れるかは、50マイルの折り返し地点でわたしが決めるからな。そこでダメと判断したら引き返すんやで」
え!? 美穂姉え。行けって言ったり、ダメって言ったり一体どっちなの!?
***
次の休憩ポイント、『ワイナマロ・リクリエーション・センター』でホノルルセンチュリーライドの参加者達は背中のゼッケンにステッカーを貼って貰っていた。このステッカーがチェックポイントを通過した証拠となり、最終的に100マイル完走の証となる。
実はこれはセンチュリーライドの参加者が各休憩ポイントで適切に補給を採るための措置でもある。必然的に参加者に適切な補給と休憩を取ることを促し、比較的初心者の人達も無事に走りきることが出来るシステムとなっているのだ。
参加者達は皆この"指導"に喜んで従い、無料で貰える食事に飛び付いている。
当然だ。走ることでカロリーを消費し、無性に食べ物が欲しくなるのだ。
それに走った後の食事は最高に美味しい!
裕美もこの時ばかりは太る心配をする必要はないので、喜んでアップルパイに手を伸ばしている。
スポーツの最中に食事を楽しめるのは、ロードバイクの最大の魅力かも知れない。
他のスポーツ、例えばマラソン等では走る度に胃が上下にシェイクされるので、運動中にモノを食べることは厳禁だ。お腹が痛くなってしまう。
ところが自転車の場合、食事をしても腹痛で悲鳴を上げることもないから、空腹もあって、食事にブレーキが掛からなくなるのだ。
そんな補給の最中、美穂から声がかかった。
「裕美―! 甘いものを採るのは良いんやけど、そろそろスポーツドリンクも飲むようにしてなあ」
「スポーツドリンク? 水じゃダメなの?」
「水でも良いんやけど、少しずつアクエリアスとかも飲むようにしてな。あのテントで貰えるからボトルに補給しておいてなあ」
そう言って、美穂は他の参加者達へも声をかけ始めた。やはりスポーツドリンクを飲むようにということだ。アップルパイのように甘いものには、無糖のアイスティーの方が断然合うし、正直裕美はアクエリアス等のスポーツドリンクは飲み慣れていない。
しかしちょっと苦手ではあったが、美穂が裕美だけでなく皆に声をかけていることが気になったので、素直に指示に従うことにした。
まあアップルパイを食べ終わった後は、冷たいアクエリアスも口直しに良いわね。ここはアメリカだしスポーツライクなドリンクの方がきっと合うわ。そんな風に裕美は軽く考えていた。
それよりも裕美は、この次の休憩ポイント、カイルア・ディストリクト・パークのことを考えていた。この次で美穂から100マイルを走れるか否かの審判が下されるのだ。
彼のために100マイル走らなくちゃいけないんだから。ここで頑張って美穂姉えにわたしも走れるってことアピールしなきゃ!
***
「テル君、ユタ君、わたしも来たわよ。みんなに付いて行くから!」
「おっ、裕美さん気合入ってますね。結構速いペースじゃないすか!」
テルとユタもちょっと驚いた様子だった。裕美は自分が100マイル走れることを美穂にアピールすべくペースを上げ、ツバサやテル達が居る先頭集団へ上がってきていたのだ。
ワイナマロの山の麓を通るこの道は、舗装が少し荒れているのでスピードを上げるには体力だけでなく神経も使う。だがそんな弱音は言っていられない。
「美穂姉え、どうなの? わたしも100マイル走れると思う?」
「裕美、どうや? 身体で特に痛い所はないか?」
「えー、今の所は特にないけど......」
「そうか、それなら100マイルも行けるかも知れんな。実はロングライドを走るかどうかの一番のキモはなあ、脚力とか体力の問題じゃなくて、むしろフィッティングや栄養補給の方が大切なんよ」
「フィッティング?」
「つまり自転車のパーツやポジションが自分の身体に合ってるかどうかってことやなあ。人によってはサドルが合わなくて、お尻が痛みだすとか、肩や首が痛くなって走れなくなってしんまうんよ。次の休憩ポイントでちょうど60キロ走ったことになるからな。そこまで走ってどこにも痛みが無いようなら、多分100マイルも行けるよ。まあフィッティングも本当は難しいことなんやが、タッキーの出したポジションが良かったんやな」
そう言えば、彼がチョイスしてくれたパーツや、ポジションは裕美に合っているようで、幸いにも今までそんな痛みは経験したことはない。
「それと栄養補給やな。夏に長距離を走ると汗をかいて身体の塩分が不足するからな。甘い物でカロリーを採るだけじゃなくて、塩やミネラルを採る事が重要なんよ。それでさっき皆にスポーツドリンクを飲むように言ってた訳や」
「そうだったんだ......」
作品名:恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス 作家名:ツクイ