恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス
本当はロードバイク専用のシューズがあるらしいが、それはスキーのビンディングの様な器具でペダルとシューズを固定するらしい。まだロードバイクに乗りたての裕美は危ないので、あくまで普通のランニング用シューズだ。
極めつけに裕美は濃い目のルージュ、いや『ロッソ』を付けて、メイクまで自転車に合わせてみせた。
「メイク、ウェア、自転車も全部『ロッソ・ビアンコ』で、コーディネートも完璧よ! さあ、今日のサイクリングで彼に会っちゃうんだから!」
裕美が気になっている"彼"とは、裕美がこの『デローサ』を買ったロードバイクショップ『ワルキューレ』の店長のことだった。皆、彼を『タッキー』とも呼ぶようだが、裕美はまだ彼を『店長さん』としか呼べていない。
裕美が彼からこの『デローサ』を買った際に、彼と一緒に二人で走りたいと告白した――。
しかしその結果、今日この"合同サイクリング"に誘われたのだった。
違う! 違うの! そうじゃないのよ――!
店長さんと二人で走りたかったんだから――!
裕美は心の中で激しく叫んだが、"二人っきりで!"などと直接彼に言えるはずもない。
裕美の"おねだり"は軽く、しかも爽やかにスルーされてしまった。
いや、彼としては真摯に応えたつもりだったのだろうが......。
だが、裕美も何とか彼と話をする機会を作ろうとこのサンデーライドに初参加することを決めた。彼の足手まといにならないよう、この日に向けて早朝に練習までしてのことだった。
***
裕美がサイクリングコースの待ち合わせの場所に着くと、そこには『ワルキューレ』のチームジャージを着た彼がいた。
彼の着ているジャージもスポーツウェアらしからぬエレガントさがある。彼のお店"WALKURE"のロゴがプリントされたジャージには、ルネサンス調の美しい女神『ワルキューレ』が背中に絵描かれていた。
『ワルキューレ』とは北欧神話に出てくる戦いの女神のことだ。時には剣を持ち戦う女神であり、時には勇者を弔い、そして黄泉の国へ誘う死を司る女神でもある。
ジャージに描かれた女神『ワューレ』は、流れる様な金髪に薄衣のヴェールを纏い、物憂げな表情で佇んでいた。
そんな美しい女神が描かれたジャージは、端正な彼に本当に似合うと裕美は思う。
わたしが、オペラ『ニーベルングの指輪』のヒロイン、女神ワルキューレの一人『ブリュンヒルデ』なら、やっぱり彼は主人公、不死身の英雄『ジークフリード』なのかしら?
裕美はそんな妄想をしつつ、周りの人に気取られない様、チラチラと彼をチェックした。
それにしても、彼はスタイルも良いと改めて認識する。モデルと言っても十分通用するかも知れない。
彼の脚には贅肉は一切無く比較的細身ではあるが、鍛え上げられた太腿や脹脛の筋肉が存在感を醸し出していた。
脚だけではない。ジャージから覗く腕や首筋も同様に細い。でもそれは余分な脂肪が無いというだけで、くっきりと筋肉の筋が見えるのだ。
細くてしなやかで、でもスポーツマンの男の人。ミケランジェロの彫刻よりも少し細めの日本人的な肉体美は、裕美のスイートスポットにピッタリ 嵌った。女性によっては少し太めの男の人が良いと言う人もいるようだが、裕美には全く想像も出来ないことだ。
勿論、そんな女としての邪まな妄想を悟られてはいけない。クールな表情を意識しつつ、裕美は彼に声をかけた。
「店長さん、おはようございます!」
「おはようございます。合同練習は、裕美さんは今日が初めてですよね。ショップの誰かが一緒に走りますから、安心して走って下さい。美穂さんも来ていますよ」
「えっ、美穂姉えも来ているの? やった! ラッキーだわ!」
女性プロロードレーサーの美穂まで来ているとは、嬉しい誤算だ。彼女の走りに魅せられたこともロードバイクを始めた理由の一つだったからだ。
「美穂姉えー! おはよう!」
「おっ、裕美。この間は車を出してくれてありがとな。聞いたで、ロードバイクを買ったんやって? しかも『デローサ』やないか! 偉く気合の入ったのを買ったなあ」
「ハハハ、美穂さん。実は裕美さんがロードバイクを買ったのも、『美穂さんみたいになりたい』から言ってたんですよ。どうしてもロードバイクじゃなきゃヤダって言いましてね。30万円もするバイクを一括払いですよ!」
「店長さん、そんなこと美穂姉えに直接言わなくても良いのに。恥ずかしいわ!」
「良いじゃないですか、本当の事ですし。そうゆう事はちゃんと本人に言った方が、美穂さんもサービスしてくれますよ!」
「ハハハ、裕美も嬉しいこと言ってくれるやないか。女からカッコ良いって言われるのも嬉しいしなあ。それにわたしを見てロードを買うなんて、プロ冥利に尽きるわあ。よし、裕美、今日はあたしと一緒に走ろう!」
裕美にとっては願ってもないことだ。彼と一緒に走りたくもあったが、この機会に彼のことを色々聞いてみよう!
「美穂姉え、こちらこそお願いします。わたし頑張って走りますから!」
「アハハ! そんな気張らんでも、エエよ。まあ、ゆっくり行こか!」
裕美と美穂はチームの最後尾で走り出した。前を走る人が"風除け"になって走ってくれるので、後方の人がより楽に走れるからだ。
これはロードバイクでは『ドラフティング』と呼ばれる基本的なテクニックで、チームで走る際には必須となる。メンバーの後ろをタイヤ一つ程度の間隔を空けて走るだが、楽に走れる代わりに、前方の視界が悪くなる難点がある。ドラフティングに慣れていない、また集団で走る作法を知らない人にとってはちょっと怖いものだろう。
そのために前方の人が、後ろを走る人に手でサインを出してあげる必要がある。美穂から基本的なサインを教わると、裕美も何とか集団の後ろを走れる様になった。減速する時等もサインを出してくれるので、ぶつかったりする心配もない。
お陰で裕美も何とかチームの人達と一緒に走ることが出来た。
裕美にとってちょっと意外だったのは、折角の"合同練習"なのに、皆本気で走っていないことだった。皆が自転車に乗りながら、お喋りしたり冗談を言い合ったりと、むしろ走るよりも世間話?をしに来ているようにさえ見える。
先月のツーリングで裕美は、美穂や実業団チーム『ワルキューレ』の、豪快でスピードを限界まで追求した走りを見ていた。自分も皆に付いて行けるようにと、それなりに気合いを入れて来たのだが、肩透かしをされた様な気分だ。
「ねえ、美穂姉え。みんな随分ゆっくり走っているけど、これで良いのかしら?」
「ああ、この間の実業団の連中はずっと先を走っているからなあ。後ろを走ってるのは、のんびり走りたい人が集まっとるんよ。ロードバイクってのはそんなムキになって走らんでもエエんやで」
「でも、皆今日はロードバイクの練習に来ているでしょ?」
作品名:恋するワルキューレ ~ロードバイクレディのラブロマンス 作家名:ツクイ