ぼくらは軍隊
「俺ばかかな」
「そうね」
「そうか」
佐々木くんは頭をかかえるのをやめて、また机にぱたりと倒れた。ぱたりと倒れながら木村冴子を見ると、彼女は憐れみ深い目つきで佐々木くんを見ながら頬杖をついていた。
「……正直に言えば、メールをもらったときは無視しようと思ったのよね」
木村冴子はまたため息をついて、そう言った。
「だいたいこの時間にメールで呼びだすのって、べつに来なくていいって言ってるようなものじゃない? 電話しなさいよねえ。こっちはいつも電話してるんだから」
ひとりごとみたいな口調だった。
「……どうもすいません」
「四時間も待ってるとは思わなかったけど」
「来てくれても来てくれなくても行くところないんだよ」
「友達くらいいるでしょう」
「いるけど」
「私今日仕事あるのよ。困るのよ。でも佐々木くんのメールで眠れなくなっちゃったのよ。だいたい私佐々木くんの友達でもなんでもないのになんでこんなことしてあげてるんだろう」
「でもミワ子の友達だろ」
お互いに、とても眠たい気持ちが声にあらわれているような口調で、だらだらと話した。木村冴子はコーヒーを飲んだが、佐々木くんはうつぶせたまま動かずにじっとしていた。さめるよ、と木村冴子が呟くように言った。
「コーヒーって随分飲んでないかなあ俺」
「知らないよ」
「俺さあミワ子のこと好きだったなあ」
「……そうねえ」
木村冴子はすこし首をかしげてそう言った。覗き込むような首の傾げ方だった。
「家出してきたのいい年して」
「出ろって言ったの木村だろ」
「馬鹿ねそういう話じゃないでしょ」
本気で怒っているような声に聞こえて、見上げると、木村冴子は怒りかけた目をして見下ろしてきた。馬鹿ねっ。あ、今のはちょっと高橋さんに似てた、佐々木くんはそう思って目を丸くする。けれどそれは悪い気持ちではなかった。いやな驚きではなかった。
「佐々木くんほかのひとの電話とかメールとか返事してないらしいじゃない、私だけ出てるんでしょ、佐々木くんの友達から連絡あったよ」
「……ごめん」
「謝らないでよ」
「ミワ子の友達だからなあ」
「仕方ないじゃないそれくらい分からないわけじゃないけど、そしたら仕方ないじゃない、佐々木くんには私が必要なのかなとか思うじゃない、私にちょっとでもなにか出来るんなら、なんとかしなきゃって」
そこで木村冴子は言葉を途切らせて、ためいきをついた。ためいきつかせてばっかりだなと佐々木くんは思う。
「……なんかよくわかんないわね、ごめん、眠いのよ」
「いや」
佐々木くんは起き上がって目をしばたたかせ、こすった。窓の外を見ると、うすあかるかった。まだ夜明けは遠いのだが、闇の底の方が微かに明るい。古い記憶の中の誰かの笑い声のように微かに。
うん、と、佐々木くんは呟いた。うん、そうだな、必要だったかもしれないな。
「……俺も必要とされたいんだけど」
「されてないの」
「だっていなくていいって言われたし」
「……されるかどうかは問題じゃないのかもしれない」
「でも必要じゃなきゃいる意味ないだろ」
「そういうことじゃないでしょ」
木村冴子は、ゆっくり喋った。言い聞かせるように。
「……私だって佐々木くんと話したかっただけかもしれないもの」
そう言ったあと、だからって甘えられても困るけど、と、付け足した。
「ありがとう」
佐々木くんがそう言うと、木村冴子は驚いたような顔をした。そこで驚かなくたっていいだろうと佐々木くんは思った。うちのことを思った。高橋さんがいてミワ子がいた。高橋さんはいつも背すじが伸びていてかっこいい。かっこいいよなあと佐々木くんは思う。いつもひとりだけかっこよくてすこしずるい。ずるいよなあとも思う。
「正常復帰しますんでちゃんと、ふたりとも」
伝票を取って立ち上がって木村冴子を見おろした。
「帰るわ俺」
うちに帰りつくと、家がひどく暗いのに驚いた。外も暗いけれど、家の中の方がずっと暗かった。なんでこんなに暗いんだと思う。お義父さん、と声を上げる。ひどく心細い声が出たのに驚いた。ちいさなこどものようだ。お義父さん。
高橋さん。
将軍。
どこにいるんですか。大きな声を上げるといっそう心細い気分になりそうだったので、小声でぶつぶつと呟きながら家中を覗いて回った。
こたつのまわり、布団が敷いてあった。佐々木くんが出る前は畳んであった布団が、眠れるように敷いてあって、崩れたダンボールは直してあって、佐々木くんの服も高橋さんの服も、きちんと畳んであった。テレビがついたままだった。そして、高橋さんだけいなかった。テレビから人々の笑い声が佐々木くんの耳を打った。八つあたりのように消した。
ぞっとした。
台所を足早に歩き回って、それから高橋さんの部屋をのぞいた。高橋さんの部屋はがらんとしてからっぽだった。
それから、ミワ子の部屋のノブをつかんで、つかんだまま、佐々木くんは止まった。耳を澄ませた。何か物音が聞こえたような気がした。佐々木くんはノブを回した。
とても暗かった。後にしてきた部屋より、なお暗いような気がした。佐々木くんは目をしばたたかせて、それから、お、おとうさん、と、小さな声で言った。
暗い中でなにかが動いた。
「……お義父さん」
高橋さんはミワ子の部屋の床に座りこんでいた。佐々木くんはそれを見つけて、一気に自分の中から何かが抜けていったような気がした。家を出てから、いやそれよりずっと前から、ミワ子が死んでからだろうか、ずっと佐々木くんの中にあったなにかが、どんどんと足から抜けていっている。それは何か、安らかとでも表現したいような気持ちだった。
「泣いてるんですか?」
それは驚いているように聞こえたかもしれない。すん、と高橋さんが洟をすすりあげた。高橋さんは泣いていた。ずっと泣かなかったくせに泣いていた。背すじをのばして正座したまま泣いていた。窓を見ているように佐々木くんには見えた。カーテンのかかった窓の、その外が、かすかに明るいことを、さっきデニーズでそんな外を見たことを、佐々木くんは考えた。この部屋はとても暗くてとても寒いなと佐々木くんは思う。子どものための玩具がベッドの上に投げてある。うさぎのついたガラガラ、佐々木くんが買った玩具だ。
「佐々木くん」
「はあ」
佐々木くんは気の抜けた声で返事をした。いつもそうだ。いつも気が抜けているのだ。安らかなような気持ちのまま返事をした。
高橋さんの背中を見おろす。暗いので何を着ているかよく見えない。何を着ているように見せているかも分からない。それでいいんじゃないだろうかと佐々木くんはぼんやりしながら思った。
「なんですか、お義父さん」
「お義父さんって呼ぶんじゃない」
ぐずぐずとすすりあげる高橋さんの背中は、ずいぶん小さい背中だったんだなあ、と、佐々木くんは思った。
小さな高橋さんを見おろした。
「君はただの三等兵で、わたしはただの将軍だ」
「でもお義父さんですから」
「君と結婚したのはミワ子の勝手だ」
「そうですけど」
足もとからしんしん冷え込む。高橋さんは寒そうだと佐々木くんは思った。
「ここに住んでんのは俺の勝手です」