八国ノ天
三人と別れ、官兵衛と櫛は茶屋から少し離れた場所にいた。二人は橋の手すりから桟橋や岸壁に停泊している船を眺めていた。
橋の上では和太鼓の準備が着々と進められ、本番に向けて桴を持った大人や子供が練習をしている。子供たちは顔に入れ墨のような紅色や青色の塗料を塗っていた。
「あの子たちのフェイスペイント、この地方の戦闘用フェイスペイントを模したものね。なんか可愛いわね」
官兵衛は頷き、
「せっかくの夜だ。王女とキアラを早く見つけて、みんなでゆっくり見物といきたいものだな」
「そうね」
「ところで櫛、気付いたか? 村久野側に停泊しているあの船だ」
「あの大きな黒い船のことね。安宅船に似ているわね。長さ五〇メートル、幅一〇メートルといったところかしら」
「だとすれば技術的に四、五〇〇年以上先のものだ。少なくとも長州五国や八国の技術では造れないな」
「行ってみる?」
「あぁ。西都かどこかの豪商か賓客の船に見えなくもないが、軍船の可能性もあり得る。何かあるかもな」
官兵衛は武具を背負い歩き出す。櫛の後ろで篠笛や桶胴太鼓の音が鳴り響いていた。
4
赤間竜宮は海沿いにある神社で、綾村大橋から歩いてすぐの場所にある。
いつもは旅人や行商人で賑わっているが、今日は綾羅木国と村久野国の人たちで賑わっていた。この赤間竜宮でも露店や催しが開かれ、あちこちに衛兵の姿も見受けられる。
夕暮れが深まるにつれて、かがり火と行灯の明かりが歩いている人達の笑顔を照らしていく。
木霊と十夜、十真は白壁に朱塗りの大きな門をくぐり、手口を清め、本殿へと続く階段を昇った。
階段を一歩ずつ昇るたびに、木霊の心臓が高鳴っていく。
境内に着くと、十夜は言った。
「木霊、私たちはこの辺で探してみるから。木沙羅王女かキアラ、それらしい人がいたら知らせるね」
十夜と十真は気をつかってくれたのだ。木霊はありがとう、と言った。
木霊はまっすぐ、あの場所へと向かって行く。
さっきから心臓の高鳴りが止まらない。左手を握り締め胸にあて呼吸を整える。
雑踏の中、それらしき声の人はいないか。それらしい人はいないか。木霊は仮面を気にしながらもヴェールから目と耳を研ぎ澄ませながら歩いた。
雑踏をかき分けていくとやがて、あの場所が見えてくる。あの場所は境内から少し離れた所にあり、明りも人も少ない。遠くに淡い光に包まれた綾羅木橋が見える。
(木沙羅さま……木沙羅さま……)
木霊は歩く足を止めて辺りを見渡した。それらしき人はいなかった。
木霊はまた歩きだす――三年前、絵馬を奉納した場所へ――すぐ目の前なのに遠くに感じる。祭囃子の音に混じって、三年前の音が聞こえてくる――遠い遠い蝉の声。
木霊は自分が奉納した絵馬に目をやった。それはすぐに見つかった。
黒髪の束が二つ。
(二つ……!)
木霊は髪束を手に取った。
(これは私の……こっちは…………。ああ……)
懐かしさが込み上がってくる。木霊はもう一度絵馬を見た。今度はさっきより冷静に見ることができた。
木霊の絵馬と一緒に髪束が二つ。
別の絵馬が一枚。
そして、厚手の生地で作られた帯状の布が三枚。
木霊は絵馬から見た。
絵馬には名前は無かったが、木霊には誰の字であるかすぐにわかった。
(崩して書いているけど間違いない。これは木沙羅さまの字。日付は……三年前……)
次に帯状の布を見た。
(この布、木沙羅さまの好きな桜色……)
布には全面を埋め尽くすように、日付けが刺繍糸で縫い込まれていた。
(これは……三年前からずっと毎日?)
木霊は二枚目、三枚目とめくった。新しい日付けへと指でなぞって行く。
五日前。
四日前。
三日前。
二日前。
昨日。
ここで止まっていた。
(昨日まで確かにここに来ていた――)
心臓の鼓動が大きく、深く打つのがわかる。
(今日はまだ……待っていればきっと……)
きっと。
木霊はふと後ろを振り返った――。
一人の少女が立っていた。
あたりは暗くなり、あちこちに行灯やかがり火の明りが見える。
「こんばんは」少女はにこやかに言った。
胸が熱くなる。言葉が出ない。歯をぎゅっと食いしばる――木霊は涙が出るのを必死にこらえていた。
「こ、ん……ば、んは」それでも頑張って声に出したとたん、頬が濡れていくのがわかった。
「もしかして、泣いているのですか?」
「ご、めんな、さい」
少女が近づいてくる。
「大丈夫ですか? はい、よかったらこれ、どうぞ」
少女がハンカチを差し出す。
「ありが、とう。でも、もう大丈夫」木霊は笑顔で答えた。
ヴェールに隠れて顔を見ることはできないが、木霊の様子を確認してから少女は安心したように頷いた。
三年ぶりに会った少女は、顔立ちも容姿も声も大人っぽくなっていた。
「あなたの声、私の友達にそっくり」少女は興味深げに言った。
「え? そう、なのかな」
「ええ、話し方や髪の色とか違うけど、何かすごく懐かしい……あ! 私は槙と言います。あなたは?」
(槙?……名前を変えている……)
――木沙羅さま。私です。佳世です。会えてすごく嬉しいです。元気にされていましたか? 今はどこに住んでいらっしゃるのですか? キアラさまはどうされていますか? 一緒に……八国に、……ヒムカの国に帰りましょう。
ずっと一緒にいたいです。ずっと――。
想いが溢れてくる。しかし――、
「私はこだま。柊 木霊」
(そうだ。私はもう佳世じゃない)
「木霊だね。なんか可愛い響きだね。ところで、木霊もここで人を待っているの?」
「あ、それはその……そう、だね」
「そっかぁ、私もね。ここでずっと待ってるんだ」
そう言いながら木霊の隣に並ぶと、槇は帯を手に取って絵馬と髪のことを説明し、
「三年前からこうやって毎日、縫っているの。いつ来ても私が毎日、ここに来ていることがわかるようにね」
槇は刺繍糸と針を取り出し、縫い始める。
木霊はヴェールの中の仮面に手を触れ力を入れた。
――どうして外れないの? もういいでしょ? 許してよ。どうして目の前にいるのに会わせてくれないの。
木霊は槇の真剣な眼差しを見た。願いを込めるように一つ一つ丁寧に、槇は針を通していく。その目は希望に満ちていた。
(しっかりしろ! 私は誓ったんだ――本当の私――佳世ではなく木霊として会うと。それに外れないということは、やはり木沙羅さまの心にはまだ光が差し込んでいないということだ。だけど――)
「私が待っている人はね、お姉さんみたいな人だったんだ」
昨日の日付けの下に針を通しながら、話を続ける。
「お姉さんといっても、身分は侍女になるんだけど、本当の姉妹のようにずっと一緒だった。あ、こう見えても私、数年前は王族だったんだよ。もう国はなくなっちゃったけどね。それでね、そのお姉さんの名前は教えられないけど、戦乱の中でその人とはぐれてしまったの。それからずっと、ここで待ちながら探しているんだ」
木霊は黙って頷いた。
槇の話し方は変わっていた。しかし、それは当然と言えた。身分を隠すために、生き抜くために必要なことであった。それは木霊にとっても同じだった。