八国ノ天
十真の爆矢によって表皮を削がれた右手首と口から、厚い皮の下に隠されていた骨肉が剥き出していた。
「どうやったら、人間がこんな風になってしまうのか教えて欲しいものだな」
「イケニエハドウシタ?」
腹の底から搾り出したような獣の声と一緒に、巨大な口から肉の腐った匂いが漂う。
「話せるのか」
「ワスレタノカ。ワタシハ、カムイ、テン。イケニエハドウシタ?」
恐らく巨人は、官兵衛をこの村の人間と見ているのだろう。
「生贄? そんなもん、もう必要ねぇな。なぜなら、お前はここでくばるんだからな」
崩れた歯茎から息を漏らしながら、巨人が不快な笑い声を上げた。
「コノ、カミデアル、テンニサカラウノカ?」
「残念だが、カムイは神じゃない。それにお前はカムイ天でもない。カムイにも人工種にもなれなかった、旧時代に生まれた、ただの化物だ」
すると、巨人は憤怒の声で、
「ニンゲン。キサマヲクラッテヤル。コノムラノニンゲンスベテ。クラッテヤル。オマエタチヲクラッテ、モットツヨクナッテ、アトゥイノニンゲン。ヨウカイ。クラッテヤル」
巨人はぱかんと口を開けた。
「そうか。俺もお前を許すことができん。ヨミの命と木霊の腕、お前の命で償え」
官兵衛は腰に佩いた太刀を手に取ると、肩をまわし、足裏を地面に這わせた。
開いた口から屍人が出てくる。
「これが、十夜が言っていた屍人か……ん? 臼歯が無い……まさか? いや、それはありえない……」
巨人の上顎と下顎の奥が見えていた。
(しかし、木霊は自力で解を見つけナオを救った――)
「ものは試しってやつか」
官兵衛は難なく屍人を倒すと、そのまま巨人の下唇に乗っかり、
「俺を呑みこんでみろ。化物」
そう言って、官兵衛は巨人の喉の奥へと跳び込んだ。
巨人は立ち上がり口を閉じた。ぐいぐいと喉の奥へと押し込んでいく。
「オロカナ。ミズカラ、イケニエトナッタカ」
巨人の四肢が動くたびに、かがり火の炎が揺れる。
「グフゥ……ウマイ。イケニエハモウイイ。サトニオリテ、スベテクラッテヤル」
だが、境内の中央まで進んだ時、巨人は苦しそうに唸り声を上げた。
さらに口を半開きにし上半身を起こす。
「オウェ……ア……ォア」
突然、巨人の胃のあたりが膨らみ始めたかと思うと、一筋の赤い線が縦にスッと浮かび上がった。その赤い線は滲むように太くなっていった。
腹は膨らみ続け、灰色の肌が限界まで伸びきったその時、破裂するように裂けた。あらゆる体液が裂け目から噴き出ていく。
その中から太刀を握った官兵衛が勢いよく飛び出し、そのまま地面に着地した。
官兵衛の背後で巨人は全身を痙攣させ、背中から倒れ二度と起き上がることは無かった。官兵衛は巨人の腹から心臓、あらゆるものを切り裂いていた。
官兵衛は太刀を収めると、もう片方の腕に抱き抱えていた少女に声をかける。
「ヨミ。目を覚ませ」
官兵衛の腕に小さな鼓動と息づかいが伝わっていた。
官兵衛は懐から取り出した手拭いでヨミの顔を拭きながら、何度も声をかけた。
「げほっ、げほっ――」
ヨミはむせながらうっすらと目を開いた。
「ヨミ」官兵衛は笑を浮かべていた。
ヨミはしばらくの間、うつろな瞳で呆然と空を見つめていたが、官兵衛に向き直って、
「ここ……は?」
「ここは境内だ。ヨミは助かったんだぞ」
何のことか、わかっていないようだった。
官兵衛は黙って後ろを振り返る。すると、ヨミは縫い付けるようにしてそれを見て呟いた。
「私、生きている……」
官兵衛は腕の力を強めた。
「そうだ、生きている。ヨミは助かったんだ」
「――っ! お姉ちゃんと木霊さんは?」
「みんな、無事だ」
「本当に?」
ああ、と頷く官兵衛に、ヨミはぶわっと泣き出していた。
官兵衛は歩き出した。
「戻ろう」
10
櫛、十夜、十真、木霊、ナオの五人は朧村で最も大きな屋敷にいた。
途中で村の男達の手を借りて、木霊とナオはこの屋敷の奥にある部屋で眠っていた。
ヨミに刺された神主の耳朶は助からず、命を落としていた。
櫛は治癒の力を持っているが、カムイと人口種以外にはほとんど意味を成さなかった。
耳朶は内臓をやられていた。切り傷程度であれば通常の人間であっても櫛の力で治せるが、耳朶のような重症では、その効果はほとんど望めない。
木霊は左腕を失っていた。左肩から下は跡形も無い。
その切断面は櫛の力によって塞がってはいたが、木霊の傷は精神的なものが大きいようだった。木霊は口を歪め、全身汗だくになり、うなされていた。
庭に面する渡り廊下に、月明かりが差し込んでいた。
「櫛、木霊の様子はどうなの?」
十夜の隣で十真は今にも泣きそうな顔をしていた。
障子を挟んだ部屋の外にいても、時折、木霊のうなされている声が聞こえてくる。
「痛みはもう無いはず。だけど、心の傷までは……。天罪ノ面は心に安らぎを与えない。あれは心を食い尽くす呪いと同じ。もしここで木霊が絶望を抱いてしまえば……」
櫛は煮え切らない顔を二人に見せてから、静かに言葉をつないだ。
「死ぬわ」
「木霊は絶望なんて抱かないわ」十夜だ。「決して」
「そうね。今は信じて待ちましょう」
優しく語りかける櫛の瞳に、十夜と十真は力強く頷いた。
ナオが目を覚ましたのは、櫛が部屋を出ていってからすぐだった。
ナオは布団の上で仰向けになっていた。
静かだった。
肌に触れる空気の冷たさ以外、ナオの耳は何も感じない。
鋼鉄の枷でもはめられたように手足が重かった。
明障子を通して、部屋の中はうっすらと明るかった。
あの晩もこんな月夜だった。
「ね、ヨミ。走るのってあんなに楽しいことだったんだね」
隣には誰もいなかった。
なぜ、こんな言葉が出たのか自分でもわからなかった。
本当にそう言ったのかもわからない。
何も聞こえない。
遠くで鳴く虫の声や川のせせらぎも。
服と布団がこすれ合う音も。
いつも一緒だったヨミの小さな寝息も。
聞きたくても、もう聞くことができない。
「うっ!」
ナオは突然、吐き気を催した。
思い出したくない。
「ヨミはもう帰ってこないんだ……」
頭の中に熱いものが込み上がってくるようだ。
「ううぅ……」
どうして、こうなってしまったのか。
「ヨミ、ヨミ――」
何度も名前を呼んだ。
なぜ自分だけ。
ナオは袂から小さな木箱を取り出していた。
震える手で木箱の蓋を開け、小豆のような小さい一粒の黒い丸薬をつまむ。
『その箱の中には代々、雛巫女に手渡される薬が入っている』
生前、耳朶がナオに言った言葉だ。
『よいか、ナオ。儀式は残酷なものだ。前もってこれを飲んでおけば身体の感覚は消え、一刻ほどで死ぬことができる』
ナオはそれを口に含んだ。
「あたしもすぐにそっちに行くからね。そうしたら、一緒に手をつないで走ろうね」
ナオは手を伸ばし、頬を撫でるような仕草をしていた。
ごくりと飲み込んだ。
ナオはたくさん、泣いた。
声が漏れないように歯を食いしばって哭いた。
哭き疲れたのか、やがて、ナオは静かに目を閉じた。