八国ノ天
村の男に案内され官兵衛が屋敷に着いたのは、夜も深まった頃だった。
村の男や女たちが慌ただしく動きまわっている中、屋敷の前で櫛、十夜、十真が出迎えていた。
官兵衛の姿を見るや、三人とも信じられないといった様子で、太い腕に包まれている少女を見つめていた。
「ヨミ!?」
「どうして?」
十真と十夜が口々に驚きと疑問を投げかける。
「ん? お前たち泣きながら待っていたのか?」
官兵衛はわざと茶化すように言った。
当然のように十夜と十真の二人が、むっと、官兵衛を睨めつける。
「それより湯はあるか? ヤツの身体の中に飛び込んだのはいいが、臭くてかなわん」
「お姉ちゃんは!?」
「今は静かに眠っているわ。先に身体を洗いましょう。お姉ちゃんと一緒に寝るのでしょ?」
ヨミのはやる気持ちを抑えるように、櫛は微笑みながらヨミの手を取る。
かがり火の赤い炎が、夜空へ向かって真っ直ぐ伸びていた。
櫛とヨミが屋敷の方へと歩く姿を見ながら、官兵衛は目を細めて顎をさすっていた。
「ほお、櫛は感心だな。鼻を一つも曲げずにヨミを連れて行ったぞ。それに比べ、お前たちときたら――」
「いつまでそこにいるの? 臭いかも」
「早く熱湯にでも浸かってきたら?」
十真と十夜の四つ瞳が官兵衛を屋敷へと促す。二人とも鼻をつまみ翼をバサバサと動かしていた。
仕方なく官兵衛は風に煽られながら、二人の見つめる先へと歩き始める。
「でもどうして、ヨミが生きているのがわかったのかしら?」
「十夜、あの化物の口をよく見なかったのか? あいつには臼歯が無かった」
官兵衛は振り返った。勝ち誇ったように、にやりと笑う。
「鳥や魚と同じように、飲み込むしかない……」
「そういうことだ、十真」
「なるほど。あ、お風呂は向こうよ」
十夜が右腕を伸ばし、人差し指をまっすぐ向ける。
官兵衛は「お前たちは」と、少しだけ悔しがるような表情を見せてから、踵を返した。
「あと……」
官兵衛は立ち止まった。
「お帰りなさい」
振り返ると、二人とも両手を後ろに組んで笑っていた。
官兵衛は微笑んで見せると、すぐにまた歩き出した。
櫛に案内されヨミは、月明かりがうっすらと差し込む部屋の中にいた。
隣で寝息を立てているナオの姿があった。
ヨミは布団の上に座り、ナオの顔を覗き込んだ。
ナオは右拳を握り締めていた。
「お姉ちゃん、もしかして泣いていたの? でも、もう泣かなくていいんだからね」
ヨミはナオの目尻をすっと撫でた。
「明日、起きたらびっくりするかな? ね、これ見て。櫛さんに結ってもらったんだよ」
あまりにも嬉しくて思わずにやけてしまいそうだ。
ヨミは掛け布団の端を掴むと、そのまま上に持ち上げ、ナオの体に自分の体をぴたりとくっつける。
「また、こうやって眠れるんだよね」
ヨミは体を丸め、ナオの胸にうずくまるように眠りにつく。
懐かしい温もり。
「いつまでも、ずっと一緒だよ。お姉ちゃん」
ヨミはそっと目を閉じた。
木霊が目を覚ましたのは、明け方だった。
頬にほっそりとした、それでいて暖かい指の感触。
深い藍色にも似た黒い髪。
「目を覚ましたのね。木霊」
櫛の顔が目の前にあった。
「櫛さん」
木霊はか細い声で呟くように言った。
櫛は湯で浸した布を木霊の首にあて、汗を拭っていた。
木霊は無意識に右腕を動かし、右手を見つめた。
そして、左腕を動かしてみた。
感覚はあった。
しかし、何も映っていなかった。見えるのはくすみがかった白っぽい部屋の壁。
木霊の脳裏に今まで起こったことが蘇る。
ナオとヨミを追って社の中へ入って行く。
左手に松明を持ち、坑道の中を進んでいた時の緊張。
屍人という得体の知れない者に対する未知の恐怖。
初めて人を斬った時の血の匂いと、何か固い筋をブチブチとぶった切る嫌な感触。
「櫛さん、私は……」
櫛は黙って木霊の顔を見つめていた。
ヒムカの国で過ごしていた時の自分が、嘘のようだ。こんなに変わるものなのだろうか、いや、変わってしまった。
天罪ノ面が木霊の双眸にケラケラと笑いかける――だって見てみろ、この褐色の腕は何だ? この金色の髪は?
仰向けに倒れているナオのそばにヨミがいた。
二人とも、何かを恐れるように木霊を見つめていた。
次の瞬間、巨大な口が脳裏に蘇った。
木霊はがばっ、と勢い良く上半身を起こした。
「木霊!」
櫛が木霊の右肩を掴む。
目の前で口に呑み込まれるヨミ。
十夜と十真の叫び声。
あとは何も思い出せない。
だけどこれだけは、はっきりしている。
ヨミはもういない。
はっ、として木霊は顔を上げた。
「ナオは!?」
「みんな無事よ」
「そう、ですか。よかっ――」
木霊はもう一度、訊いた。
「みんなというのは? もしかして……」
櫛は三日月のような瞳を浮かべていた。
「十夜に十真、ナオ。そしてヨミも。みんな無事よ」
それを聞いた途端、胸につまっていたものが涙になって浮かんだ。
仮面から幾筋もの涙が頬を伝っていた。
それから櫛は、今までに起きたことを木霊に話した。
ヨミとナオは木霊の隣の部屋で休んでいた。
「う、ぅぅん……話し声?」
隣から聞こえてくる話し声でヨミは目を覚ました。
部屋の中はうっすらと明るく、白んでいた。もうすぐ明け方なのだろう。
暖かい布団の中でヨミは微笑みながら、
「お姉ちゃん」
ナオの腕を掴んだ。
柔らかい感触は無かった。
ヨミは手を滑らせ、ナオの手に触れた。
指先は固く冷たかった。
「お姉ちゃん……?」
ヨミの顔から笑が消えていた。
白んで見えていたのは、部屋の中では無かった。
震える小さな手でナオの頬に触れる。
「ね、お姉ちゃんは起きないの?」
涙をぽろぽろと流していた。
「どうして、起きないの?」
ヨミは上半身を起こした。
「ほら、私はもう起きたよ。起きようよ」
ナオの体をゆさゆさと揺らす。
「いやだよ。起きようよ」
ヨミは左手で涙を拭った。
「一緒にいようって、言ったのに。どうして?」
ヨミはナオの手のそばに、一粒の黒い丸薬が転がっているのを目にする。
「……なぜ、これを?」
右手でそれを摘み、ナオを見た。
ナオは何も語ること無く、目を閉じて静かに微笑んでいた。
ヨミはその笑顔を黙って見つめていた。
いつの間にか涙は止まり、ヨミも微笑んでいた。
「ヨミ? 起きたの?」
明障子から櫛が呼びかけていた。
「ヨミ……?」
木霊の声だ。
ヨミは掛け布団の端で目をゴシゴシと擦ってから、障子の向こう側にいる二人に、明るい声で答えた。
「おはようございます」
右手を自分の口に持っていく。
それと同時に、障子が開き「おはよう」と櫛の声。
ヨミはごくりと喉を鳴らし、
「あの、すみません。お姉ちゃんと私、もうしばらくの間、眠っていていいですか?」
ヨミは二人に向かって笑ってみせた。少しだけ目が赤く腫れ上がっていた。
櫛と木霊は顔を見合わせ、「それじゃ、あとで一緒に朝御飯食べましょうか」と言い、障子を再び閉めた。