八国ノ天
「お姉ちゃん、また一緒に暮らそうね。今度は私がたくさん働いて、お金ためて、木霊さんたちみたいに、一緒に色んな所へ旅して、美味しいものたくさん食べて――」
「はは。だから、あたしは聞こえないって、ヨミ」
ヨミは木霊に顔を向けた。その顔は喜びに満ちていた。
「木霊さん、神様は本当にいたんですね」
「え?」
「だって、お姉ちゃんを助けてくれた」
なぜ、そうなるの。
「ありがとうございます。この世に現れてくださったのですね」
違う――。
ヨミは木霊の前で敬うように目を伏せ、
「お姉ちゃん、もう私たち大丈夫だよ」
8
十夜は十真が見つけた部屋の入口へ入ろうとしていた。
「十夜! 早くこっちへ」
十真が急かすように後ろを振り返りながら、手摺の付いた鉄製の通路を走っていく。
部屋の中は、この時代に作られたものとは思えないもので満ち溢れていた。空気は淀んでいたが、そこまでひどくは無い。
「何のための施設が知らないけど、ここって意外とちゃんと動いてるんじゃない?」
十夜が前を走る十真に向かって叫ぶ。
時を刻むように、十夜が言う『施設』特有の音が聞こえてくる。
眼下には広い空間が広がり、この時代で見られる形とは違った机や椅子が整然と立ち並んでいる。
「電力っていうやつ? それが不足しているようだから、全ての明かりがついているわけじゃないみたい」
「ふうん、そうなの。よくわからないけど。それで、どこまで行くの?」
「ここだよ。ここは制御室と言われる部屋みたい」
と言って、十真はそのまま部屋の中へ入っていった。
一〇メートル四方ほどある部屋の中は暗く、先ほど見かけた机や椅子が壁際に沿って並んでいた。部屋の中央には一際、大きな机が置いてある。机の上に置かれた厚手の紙のような物体から、怪しげな光が発せられている。
十真は中央の机にまっすぐ向かった。
遅れて十夜が入ってくる。
「制御室? ああ、以前にも似たようなもの見たことがあったわね」
「十夜、あそこでたくさんの機械を壊して後で櫛から怒られたの覚えてないの? あれって貴重だったんだよ。もう壊さないでよね」
「あれは……その、勝手に動き出したから敵かと思ったのよ」
「壊さないでね」
十真は椅子に座って、幅一メートルほどの四角い形状をした光を発している薄い物体に向かって指で触れたり、なぞったりしていた。一見すると、机の上で薄い水の膜が垂直に浮いているようだ。
「これって、いつ見ても不思議よね?」
十夜が光の物体に向かって人差し指で触れる。すると、水面に触れたかのように短い波紋が指のまわりに発生していた。
そのまま指をぐいっと押し込むと、指が水面の裏側に顔を出す。
「エアスクリーン? 十夜、ちゃんと官兵衛と櫛から教わった方がいいよ。私一人じゃ大変なんだから」
「そう? 十真はからくりとか、仕掛けじみたの好きだものね。私はそういうの苦手。もう言葉からして駄目……」
「もう。そういうの食わず嫌いって言うんだよ」
「あら、食べ物だったら大歓迎よ」
「う〜、もういいよ。何かはぐらかされたみたい。あ! それよりもほら、これを見て」
エアスクリーンと呼ばれた薄い膜全体に、人の形をした何かが映しだされていた。
「なんなの? これ?」
覗き込むようにして、十夜が前へ屈む。
「この施設で生み出された人工種みたい」
「だけどこれ、人間なの? 人工種といえば私たちのような天狗や鬼、鼠じゃない」
「わからない。問題はこれ」
十真がエアスクリーンに映しだされた釦に指を触れると、目の前にもう一枚、小さなエアスクリーンが現れ、宙に浮く。
その小さなエアスクリーンには様々な色や形をした数字が映し出され、その数値は強弱をつけながら常に変化していた。
「十真、こいつ……」
「うん、生きている」
十真はすでに立ち上がっていた。
二人とも額から汗を滲ませている。
「十真、急ぐわよ。木霊たちが危ない」
9
「お姉ちゃん、起きれる? ここから出よう」
ヨミがナオを起こそうとしていた。木霊も少し屈んで手を貸そうとするが、ナオの様子がおかしい。
ナオは顔を引きつらせ何かに目を据えていた。
ヨミも異変に気づき姉の顔を覗く。
「どうしたの? お姉ちゃん、起――」
二人とも微動だにせず木霊を恐れるようにして見ていた。
「ヨミ、ナオ……二人ともどうしたの?」
初めは二人とも木霊を見つめているものだと思っていた。無いようだった。
しかしそうでは無く、ナオとヨミはその先を見ているようだった。二人とも黒い瞳を小刻みに動かし、どうにかして目を離そうとしていた。だが、それ以上動けずにいる。その先は天井しかないはずだ。
(何を見ているの?)
木霊はふと振り返った。
口――。
とてつもなく大きな人間の口が木霊の目の前にあった。
両端の壁を埋め尽くすほど大きな人間の口だ。それ以外何も見えない。
そいつが、ぱかんと開いて木霊を食らおうとしていた。
木霊は膝を地面につけ座っていた。黄ばんだ白い前歯の裏が見える。このままこの巨大な歯が閉じれば、木霊の上半身は間違いなく切断される。
木霊は声が出なかった。あまりにも突然の出来事に思考が追いつかない。だが、外部からの刺激がなんとか木霊の頭を働かせているようだった。鼓動と呼吸が遅くなっていくのを感じる。視界に入る全てのものがゆっくりと動き始めていた。左横で誰かが叫ぶ声――ナオだ。ナオが何かを叫んでいた。少し離れた所からも叫び声が聞こえてくる。木霊はそちらへ視線を向けた。巨大な歯に隠れ姿は見えないが、銀色の剣の切っ先が見えた。しかし、それはすぐに見えなくなった。歯が動き出したのだ。あれほど、広く感じた空間が狭くなっていく。また、すぐ左で叫び声がした。木霊は彼女の言葉をはっきり聞いた。「あなたは冥界から来たカムイ天ですね。お姉ちゃんの代わりに私を食べてください」ヨミが巨大な口に向かって、手を合わせていた。「なに馬鹿なことを!」本当にそう叫んだのかわからない。ただ、ゆっくりとその言葉が聞こえてきている。木霊はヨミの腕を掴んだ。と同時に、木霊の背中に鋼のような固い感触。木霊はそれが何であるかわかっていた。木霊は腕を強引に引っ張り、ヨミの頭を地面に押さえつけ木霊自身も前へ倒れ込む。全ての動きが元に戻る。
刹那、硬い感触が木霊の背中をなぞっていき、巨大な骨と骨がぶつかる音が木霊の耳をつんざいた。木霊は地面に這いつくばっていた。巨大な上下の歯が頭上すれすれのところで、噛み合わさっていた。その巨大な口腔から腐った匂いが漂っている。
木霊は無理やり荒げる呼吸と心臓の高鳴りを抑えこんだ。
(ヨミは正気に戻っていなかった? いや、この世界ではこれが当たり前なのかもしれない。だけどこれは……これではまるでヨミもあの珠を呑んだみたいじゃないか――)
「ナオが雛巫女になった時と同じ!? こいつの吐き出す息が瘴気?」
声に出して自問する。木霊はヨミの頭を左手で押さえていた。目の前の巨大な歯が少しだけ木霊の頭上から離れると、歯の間から唾液にまみれた赤い舌がでろっと出てくる。
「――!」